cliché

駄文書き。amazarashi/歌詞考察/哲学/本や映画の感想/その他もろもろの雑感 について語ります。

雑感

 

 


どうしてあんなに苦しんでいたのか、今となっては分からない。ただ、泥の中にいるような閉塞感を感じていたことだけは確かだ。今以上に上手く立ち回れなかった中高生時代。肥大した自意識と、それに伴う自己愛を持て余していた私は、自分で振り返ってもあまり出来た人間ではなかった。だからこそ、そばに居てくれる人が大切で、必要で、あの世界を歩くための義足みたいなものだった。

 


私は自分が嫌いだった。あの頃は今よりもっと。みんなが自分のことを下に見ていると感じていたし、実際自分は他者から見て変な風貌なのだと理解していた。クラスカースト上位の人間が、堂々と立ち振る舞う姿が憎たらしくて、羨ましかった。彼らのクソッタレな一面を垣間見て、帳尻を合わせた気になっていた。

 


思い返せば、転機は中学二年生辺りだろうか。これでも昔は明るい人間だった。おしゃべりで、休み時間には鬼ごっこをして遊んで、親にも日々の出来事を打ち明けられる無垢な小学生……だったと思う。そんな幸せな馬鹿も、人生を過ごす中で賢くなっていく。自分の異質さとか、周りの人間の無理解とか、他人水準の幸福とか。私は、それを知った上で、そこに近づく努力も出来なければ、我を突き通すほどの個性も持っていなかった。表向きはただ流されるままに動いて、心の中の猛獣の瞳だけを光らせて。

 


変われなかった理由は、いくらでも挙げられる。でも、根本的に根付いているのは母親との不和だと思う。人によっては反抗期のくだらないアンチテーゼと思うかもしれないが、親との関係と個人の人格には強い結び付きがあることを理解して欲しい。

経済社会に神の見えざる手があるのなら、私の家族社会には母の見えざるそれがあった。例えば、欲しいものをねだる時、私たちは母親に交渉をしなければならなかった。小学生が児童小説を欲しがるだけでもハードルが高いものだったのだ。

私が「この本が欲しい」と呟けば、母は大抵怪訝な顔をした。理由は子供でも分かる。値段と、それに見合う価値かどうか--。商品の値踏みは、次第に私への値踏みに変わる。「こんな本読む暇があったら、もっと高尚な文学作品でも読んだらどう。あなた最近もいらないことばっかして、ちゃんと勉強してないじゃない」。

そんな経験を何度しただろう?

他にも、プライベートへの干渉がひどかった。日記を隠したら怒られる。ケータイを盗み見られる。深夜12時頃に部屋に忍び込んできて、寝ていないと激しいヒステリックを起こされた。門限は19時、部活があると言っても信じてもらえなくて、学校に電話されるのが恥ずかしかった。

 


先程私たち、と言ったのは、姉のことを含めた「私たち」の事だ。感覚的には、ただの兄弟というより、同じ環境をサバイブした同士に近い。

私が個人的に親と仲良くないのならば、それはただの反抗期に過ぎないかもしれない。けれど、同じ思いをしている人間がもう一人いるのだから、言い逃れは出来ないと言いたい。私のこの鬱屈した性格の理由は、紛れもなく親との関係の中にある。

クリスマスプレゼントも、誕生日プレゼントも、私たちには苦い思い出だ。「何が欲しい?」と聞かれたら、私たちは母親の好みそうなものを答えなければならなかった。いつかのプレゼントは、母からは英語関係のもの(思い出せなかった)、父からは漫画や歴史関係のもの(少しズレた優しさだったけれど、欲しがるものにケチをつける人ではなかった)。これが私たちの家族の愛の形。今となっては笑い話だ。それでも幸せじゃないかと人は言う。確かにそうだけれど、あの時酸欠で苦しんでいた心は嘘にはできない。

 


話が大きく脱線した。つまり言いたいのはこうだ。私が生きづらいのは親のせい。そんな脂ぎった憎悪が、私の人生の副題だ。拭っても拭っても落ちないから、人に貶されたって仕方がない。分かってくれない人は嫌いになった。わかることができない人間は消えて欲しいと願った。どんなに良い友達が出来ても、母親と仲良さげにしているだけで隔たりを感じた。「裏切り者」と心の中で呼んだ。

本来リラックスして素の自分であれる「家」という場所が、私たちにとっては戦場だったから。安息の地でのうのうと生きてきた人を憎らしく思うのも許して欲しかった。見下さなければやっていけなかったし、選民思想を持たなければ自分が可哀想で仕方なかった。その思考回路は今でもゼロじゃない。だから、つらい。

 


話は戻るけれど、こんなこじらせた人間にも親友がいる。もう8年の付き合いになる大事なパートナー。中高生の頃は、その子とずっとベッタリ生きてきた。食事も、毎休み時間も、帰る時も、ずっと一緒。それを中学一年生から高校二年生まで続けていたのだから凄いなと思う。振り返れば、迷惑なことをしたな。自我が確立してからでは、こんな関係は築けなかった。馬鹿な時に友達になってよかった。

彼女もあまり親と手放しに仲がいいとは言えない人だった。だけど底なしに明るくて、乙女で、頭のいい素敵な人だった。痛々しくて刺々しかった私を、嫌うどころか親友だと定義づけてくれた。彼女以外要らなかったし、彼女以外のクラスメイトはほとんど信用出来なかった。学校というこれまた息の詰まる場所では、彼女という義足が不可欠だった。

 


「あなたと距離を置きたい」

と彼女に言われたのは、高校二年生の秋。相談がある、と切り出され、かかってきた電話をとったらそう言われた。

「いいよ」

と快く答えた……気がする。自分はさわやかに快諾したつもりだった。その方が女々しくないし、自分は距離を置かれても仕方ないと思っていたから。

「どうしてか聞いてもいい?」

みたいな事も言った気がする。嫌なところがあったら変えるとかも言ったかもしれない。

「あなたは色んなことができるから、そばに居ると劣等感を覚える。一緒にいると自分が嫌いになりそうだから、1回距離を置いて考えたい」

「学校外で遊ぶのはいいけど、学校内では最低限のお話だけで、極力話さないようにしたい」

返事は予想だにしていないもので、たじろいだ。自分はそんなこと思ってもらえる人間では無かった、明らかに違った!謙遜じゃない。彼女はピアノがとても上手で、音楽の授業でクラシックを演奏できるほどだ。頭も良くて、数学では学年トップになったことがあるし、優しくて明るくて可愛らしくて、クラスメイトからの人気も高い。わかりやすい要素をあげるだけでも、こんなに素敵な人なのに、何を悲しむ必要があるのでしょうか。劣等感を覚えずにそばにいた私がむしろ間抜けみたいだ。

体良く私から離れるための嘘だったかもしれない。それでも私にとっては衝撃的で、未だにアンビリーバボーな話。だけど、彼女にとってはそれは揺るがないもので、この日から8ヶ月もの間彼女と距離をあけることになった。

 


途方もない時間だった。期限は言われていなかったから、私はひたすら待っていた。いつかまた仲良しに戻れると根拠の無い自信を持って、その間はちゃんと自分の足で歩いた。彼女ほど深い関係の友達は少なかった(し、この状況を説明するのはあまりに情けなかった)から、私はずっと独りで過ごした。

たまに彼女と目が合うと、無視されたり避けられたりするのが辛かったけれど、なんとか寂しさには耐えた。(挨拶も無視。更衣室で隣になっても無視。学校外では会ってもいいって言ってくれたのに、これでは詐欺ではないか!)

 


明らかに浮いていた私を、先生も心配してくれた。「お前はアイツとやたら一緒にいるから少し心配だった。今がいい薬と思って色んな人と付き合いな」と言ってもらったっけ。でも今から人と仲良くなるのは容易なことじゃない。後に一緒に行動してくれる友達が出来たけれど、浮いていた私への同情心とか心配から声をかけてくれたのだろうと斜めに見てしまう。

強調しておくけれど、一人行動は別に辛くなかった。前述したようにみんなのことを「分かってくれない人」カテゴリに入れていたから、自分から心を開く努力を全くしなかった(生意気な野郎だ)。ただ、半身だと思っていた彼女を失うのは辛かった。ずっと待ちぼうけだった。

 


八ヶ月後、彼女から連絡が来る。「もう大丈夫だよ。また一緒に帰ったりしよう!」

悲願叶ったり。もう寂しい時期は終わり。無視されることも、避けられることもないなら、悩み事はなくなった……ように思えた。

なのに、蓋を開けてみれば彼女はブランニュー人間で、よく知っていた彼女とかなり変わっていた。

まず、底抜けに明るい。もちろん前から明るい性格だったけど、落ち込む時はものすごい落ち込みようだった。お腹がすいたり眠い時にはとてもテンションが下がるので、彼女を元気づけるのに困るほどだった。それなのに、「お腹がすいた!」「つかれたー!」ってニコニコしてるこの子は誰?

触られるのも嫌いな子だった。私が腕に触ると、真顔でやめて、と拒否をした。それなのに期間が空けたあとの彼女は、友人とハグをしている!誰?誰?何者?

 


自分でも傲慢な考えだと思うよ。自分が知っている情報だけで彼女を枠にはめるなと思う。でも、まるきり良い方に変わった彼女を受け入れられなかった。彼女は自分のコンプレックスや欠点を、期間中随分矯正したようだった。「もっと素敵な人になりたい、変わりたい」と思って、努力してきたのだ。でも私は、彼女が嫌いな彼女もひっくるめて大好きだったから、私が今まで一緒に過ごしてきた親友が消えてしまったと思った。

 


私も変わらないといけない、と思いつつも、受け入れられなかった私は、そのままどんどんこじらせて悪い方へ悪い方へ進んでいった。親ともずっと喧嘩ばかりで、勉強もせずにネットばかり触っていた。そりゃあ学力も下がるわけで、志望校の2ランク下くらいの大学に通うことになった(元々めざしていたところが高すぎた節はある)。ネットに入り浸って得たものは、なんでも打ち明けられる人生単位の友達と、やたら豊富なネットスラング。プラマイゼロと言い切れるかは怪しい。けれど、彼女だけに頼る必要はなくなった。

 


結局、人が何者かになりたがる理由は、「自分がこの分野では一番」と納得したいからだ。何かの分野でトップなら、他の分野でいくら貶されようとへこたれない自信が持てる。私にはこれがある、そんな武器の「保証」がほしい。でも、トップになんかそうそうなれやしないから、人は自分に役割をもたらす。親という役割、親友という役割、恋人という役割。世界の中で、その対象にとってトップになれればそれは「何者」と同意義だから。さもしい感情だ。

 


私はあの頃から少しは変われたかしら。多分、変化はあるんだと思う。親元を離れて一人暮らしをしたのは、私の人生の中で最も正しい選択だった。離れれば、人は美しく見える。母親のことも、今のフィルター越しでは「ちょっと心配性な優しいママ」に見えた。今でも人間関係は下手くそで、気を許せる相手に依存してしまう節があるけれど、それなりに上手くやっている。

 


ただ、やっぱり拭いきれないのは、「毒を浴びたかどうか」への執着。別に親子関係に限った話じゃない。人生で、人格に関与するほどの挫折や悲しみを食らったことがあるかどうかで人を判断してしまう。悪い癖だなあ。

 


もっと自分のトゲを溶かすためにも、何者かにならないとなぁ、と思う。毒を浴びたかどうかなんて、そんな悲しい信念は薄れて然るべきだ。何者かにならないと。欲望ではなく必要性として、最近感じている。