cliché

駄文書き。amazarashi/歌詞考察/哲学/本や映画の感想/その他もろもろの雑感 について語ります。

あたたかさは幸せの暗喩にぴったりだ

 

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岡本帰一「オルヒネ」


 

着々と冬が近づいてきている。すでに布団は厚手のものに変えた。長袖の部屋着、ふわふわのスリッパ、暖房もつけて防寒対策はバッチリだ。

それでも少し冷え込む時は、温かいものを飲もう。コーンスープ、クリームシチュー、ホットココア。まろやかに喉を通り過ぎる温みは、寂しさとか悲しさを一秒だけでも忘れさせてくれる。

 

温かい、という言葉は、幸せを表すのにぴったりだと思う。ただ体がポカポカしているだけなのに、健康で文化的な生活を送れているような気になるのはなぜだろう。もちろん換気をする時の、頬がぴりぴりするような寒い空気もたまにならいい。頭がシャキッとして、脳みそをクリアにしてもらえる。だけど、ホカホカとした部屋の中でなんにも考えずだらだらしている時、うむ。幸せだな。と思う。

 

特に、真夜中の帰り道、自販機で買ったコーンスープをフリフリしながら飲み干す時間はプライスレス。凍えたからだが文字通り芯から温まる。元々の体温が低ければ低いほど、その体温の上がり幅が幸福度に反映されるような気持ちがする。これも、ずいぶん「幸せ」らしい特徴だと思う。

 

僕達は、日常的な幸せに気づきにくい。今ある安寧に鈍感なのだ。多少不幸であった時の方が、ダイレクトに喜びを受け取れる。ハッピー・マニアの記事にも書いたように。僕らの幸福は相対的なものであり、その元値が低ければ低いほど幸福はリアルな重みを持って現れる。

 

ずっと温い部屋の中で、閉じこもっていらればいいものを、僕らはどうしてか外に顔を出してしまうんだよね。ずっと閉じこもったままじゃ、きちんと幸せに気づくことが出来なくて、ひょいと窓を開けてしまう。「幸せのために不幸を求めて」しまう。

 

それは悪いことなのかな?

変わるためには、快適な場所から飛び出さなきゃいけない、という言葉もある。コンフォートゾーンとか言ったっけ。

もっと純度の高い幸せのために、凍える勇気も必要なのかもしれないな。

ぬくぬく。ベッドにくるまりながら、そんな事を書く。ぬくぬく。冷え性の私にとっては、たったこれだけでも十分温かいけれど。

 

高熱になるほどの幸せを、時々想像する。凍傷になるほどの不幸に、時々遭遇する。

1億人に1億枚の布団を、と思う。

あたたかい場所からでしか、人の温かみは望めないと強く思う。

 

誰でもいいから暖かくしていてください。体調にもどうぞ気をつけて。