cliché

駄文書き。amazarashi/歌詞考察/哲学/本や映画の感想/その他もろもろの雑感 について語ります。

世界を自分の見たいように見てはいけない

 

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メアリー・カサット「オペラ座にて」

 世界を自分の見たいように見るな

世界を自分の見たいように見るな、という言葉が忘れられない。たしか、昔バズったツイートで見かけた。

 

どういう意味かと言うと、例えば老年の夫婦が仲睦まじく寄り添い合い、手を繋ぎあっている光景を目にしたとする。

大半の人は半ば反射的に、「長年連れ添った仲良しの夫婦」というストーリーを想起する。素敵な夫婦だなぁ、私もあんな老後がいいなぁ、というふうに。それが不倫現場であったり、再婚したばかりの夫婦である、と考える人は少ない。

これが、「世界を自分の見たいように見ている」という事だ、という言い分だ。

 

私たちは綺麗な物語や損得のない関係性に対して無防備だ。実際にそんな美しいストーリーが成り立っている場面なんてなかなかないのに、そういう幸せを盲目的に信頼してしまう。

 

逆も然りだ、何もかも順風満帆な人がいるのは信じられないから、白いものには黒い部分を「見出そうと」する。お金持ちに対しては、金では手に入らない価値あるものを持っていないと思おうとする。端正な顔立ちの人間は性格に難があると思われやすいし、座学が得意な人間は仕事では使えないと囁かれる。

偏見とは、つまり世界を見たいように見ている故の事象だ。

 

 それは右手をなくさない人間の見方ではないか

興味があって、文芸コンクールの一つである「太宰治賞」のHPを眺めていた。その中で、三浦しをんさんや、小川洋子さんなどのそうそうたる顔ぶれが、二次選考通過作品に対する書評を述べているページを見つけた。

 

第26回の書評に、衝撃を受ける。

そもそも、右手をなくすということは、それほど、一生、コンプレックスを引きずらなければならないことなのだろうか。それは、右手をなくさない人間の、見方なのではないだろうか。

 

右手を失くした主人公をめぐる「骨捨て」という作品へ宛てた加藤典洋さんの書評だ。こんなこと思いもしなかった。右手を失うことは、当たり前に人生の大部分を失うことであり、当たり前に多大なコンプレックスに発展するものだと疑ったことがなかったのだ。

 

もちろん、それで生きる意味を持てなくなったり、実際に一生涯自分の右手に思いを馳せながら生きる人もいるだろう。

問題は、そのパターンだけじゃないという想像力を持てなかった私の視野にある。私は世界を見たいように見ている。右手を失くした人は、それを一生引きずりながらも越えていくのだというドラマに魅せられている。

さらに言えば、その考えは「自分は体の部位を失うような事故に合わない」という根拠のない自信、自分は安全が保証されている観客席にいるのだという慢心の基に成り立っている。

 

 日常にそんなドラマはない

また話が逸れるが、私は普段歌詞を書くことが好きで、作詞の勉強を時々している。そんな中で、知り合いの作曲家さんに「思い通りに作詞ができる本」をおすすめしていただいた。

 

 本の内容としては、商業作詞家としての心得や作詞の基本的な書き方、名曲分析など。この本の一節に、こんな言葉があった。

Aメロの”きっかけ”を書くときには、絶対に”ドラマチックすぎる事件を起こさない”ことを心がけましょう。

 

 

初心者にありがちな歌詞の組み立て方として、悲しいときに雨を降らせたり、夕焼けを見てセンチメンタルになったり、思い出の場所で誰かのことを思い出させてしまったりする。しかし、本当に人はこういうときにこういう感情を抱くだろうか?記号としてこの情景を当てはめてしまっていないか。

日常にドラマを起こさせて、その流れに沿った歌詞を書くのは一見まとまっていて書きやすい。しかし、本当に人の感情が動くとき、そのきっかけは些細なものに過ぎないことが大半だ。

その自分の粗雑さに気づかなければ、誰かの心に残る文は書けないのだろうと思う。

 

世界を見たいように見ないように意識すること、それがこれからの課題だ。