葉 2

●久々に自分のブログを読み返したら、最終更新が2年前で驚いた。最近は文章も書けてないし、読書もしていない。何故なら元気だからだ。私の創作の原動力はネガティブにある。元気な今、書きたいものがない。

過去の私は伝えたいことが沢山あって偉いな。と思っていたが、壁打ちのアカウントでちょこちょこツイートしてた。呟きって便利。勿体ないから残しておく。

 

●最近学んだことは 自らの恥は晒していくべきということだ。今まで自分が酷いことをされた時人に相談することが苦手だったが、それは溜め込むというよりはプライドの防衛だった。"そんなことをされた俺"というラベルを貼りたくなかった。

失敗はなるべくバレたくないし、ダサい僕のことは知られたくない。でもみんな意外と話してくれるんだよな。そして「貴方はそういう話してくれないよね」みたいになる。 自己開示って難しいけど、大事だ。

笑い話になる失敗ではなく。笑えない失敗を話すべきだ。過程を話すべきだ。カッケー結果だけを話したかった。でも私はそんなカッコつけられる人間ではないのだ。

ありきたりだが、全ての出会いに感謝だ。人は水で、分子を交換し合う流動体だと思う。あなたの要素がなければ今の私はいない、と感じるテンションなう。

 

●「時間割引率」という概念を知る。
今千円もらうのと1年後千五百円をもらうのなら、今千円を選ぶよね、1年待ってプラス五百円は割に合わないよね、的な思考尺度のことだ。そう思うと朝三暮四って「愚かさ」と言うよりも、時間割引率高い人と低い人の違いに過ぎないのかもしれない。

 

●人は大きく「生きたくて生きてる人」「生きたくて死んでしまった人」「死にたくて死んでしまった人」「死にたいのに生きている人」の4種類に分けられると思っていて、死にたいのに生きている人が過小評価されていると思う。

自分を傷つけたいのに傷つけられていない人。その理由が勇気の欠如だとしても。なくなってしまった人、傷ついてしまった人は目に見えるけど、耐えてる人はそれが分かりにくいから、みんな簡単に死ぬ死ぬ詐欺とか言うけど、みんな偉いと思うよ。

 

●「おまえが絶望しないことにも、絶望しないことだ」という文章がある。フランツ・カフカという作家の言葉だ。至言だと思う。時々わたしは自分の理論に固執しすぎて、「〇〇をできていない自分もまた〇〇なのである」とメタ的に絶望するが、それを思い切って禁止することが 生きやすくなる一歩なのかもしれない。

私が個人の「自覚」に過敏なのは自分自身に言語ゲームを課す行為であり、それに答えが出ずループが起きてしまうのは当たり前のことだったんだ。なぜなら自問自答してルールの再定義をしようとしてもそれは不可能なんだから。

言葉に「嘘」がないか気まぐれに精査して、私というたった一人の内輪の言語ゲームを他人に強制する行為だったのかもしれない。そりゃ社会というコミュニティーに属せないよ。(この考えもまた短絡的で、「社会」という枠組みの定義が必要で、つまり不要で、うわー!!)

 

●ここでない何処かに行きたいってのと、エスニック料理を食べたいという欲望はよく似ている。「私を知らない街に行きたい」とはつまり、自己連続性のない場所に行きたいということだ。言葉の意味をそのまま受け取るなら、今の自分とまるで違う自分に変わればいい。でもそう簡単にうまくいかない。他人から見て私の「今」と「過去」に連続性があるからだ。自分だけが過去の自分を断ち切っても意味がないのだ。

その点、エスニック料理(=海外の知らん土地)は過去の私を知らない。今1点の私しか知らない。ということを考えながら杏仁霜を買う。

 

●明るい曲が嫌いだったし軽いと一丁前に思っていた16歳、応援ソングもラブソングも合わないと思っていたが浅はかだった。歳を重ねれば誰もが辛い経験をして、それでも楽しいこと明るいことを眼差して行くしかない、でなければ終わりしかないから、それは努力だ。

堕落しようと思えばいくらでも堕落できる、ネガティブになろうとすればいつまでも落ちてゆける、その中で生活を「営む」ことの難しさ、それはつまり「禅」なんですよ。料理をして植物を育て、慎ましくも自分の美学を曲げない。ネグレクトしない。

大人だからみんな何かしら事情があって病むこともあって、それをおくびにもださず明るく生きることの強さたるや!生活は続く!そういう人を私は尊敬するし、それを描いているのが「PERFECT DAYS」なんです。 「丁寧な暮らし」とは自分に打ち勝つための作業療法。だから私はPERFECT DAYSが最も美しい映画だと思うし、私の価値観を変えた映画だと思っている。amazarashiのパーフェクトライフを聴きながら思う。

 

●何かを推したい、なにかにハマりたいというのはせめて消費社会において自分を優位に立たせたい気持ちの現れなのかもしれない。結局は資本主義のもとの価値観なのだけど、能動的な気がするから。amazarashiのラブソングを聴きながら思う。

 

●本当に頭の中で今考えていることを赤裸々に呟き続けたらその思考って私なんだろうか。 やはり外に出す、というふうに思考を挟むので外向きの私なのだろうか。思考は全て書き出せるものなのだろうか。

思考は主に三分裂していて 主旋律みたいに文字に起こせる言葉と、不安と、本能に枝分かれている、こうやって頭の中を文字にしてみても、肘が痛い、乾燥機がうるさい、と思考が散漫であり、全ての脳みそを書き残すことは出来ない。とはいえ、意識がある限り何かを考えていて それは一筆書きのようになっているはず。わざわざ日記を書かずともその意識を可視化できたら私の成長(もしくは劣化)が読めるのにな、と思う。 

 

 

 

HIKARI

怒りと光の語感が似てる、なんて冗談にもならない。

IKARI、HIKARI←スペイン語はhを発音しないらしい。←だからどうした。

頭の中で人格をブチブチ割いて、ちぎっては捏ねて、まとまったのにまた切って、血が上るこめかみが痛くて、壊れてしまいそうだ。

全て自分のせいにするのは、とても簡単で、自動的にその回路に乗せることが可能で、でもそれをすると最終地点は死しかなくて、やらない方がいい思考。無になれ。ロボになれ。いやいや笑いなさい、臨機応変に対応しなさい。厳密に行動しなさい。自分を棚に上げて指図だけは饒舌な立場のなんて多いこと。

上に立つ人間は、上に立っている自覚をもっと持った方がいい。自分が認識しているよりも1.5倍は、誤ちを犯していると自覚的になるべきだ。下の立場は必ず弱い、そして未熟だから必ず間違うのだ。ですから、自分なんかが指摘するのは烏滸がましい、不満を言ってしまえば己のミスが浮き彫りになるために声に出せない。そうして上の立場の人間の独壇場ができ上がる。

環境が悪い?組織が悪い?←正論です。正論なんだけれど、じゃあどうやって逃げようか?じゃあどうやって終わらせようか?助けを借りようと周りを見渡す時、自分が助けを求める勇気のない軟弱ものだという壁にぶち当たる。先手必勝、先回って私の言動を否定する仮想敵が現れる。何をやってもムダ、お前がそもそも悪い、っていうか普通に悪い。破壊と創造を繰り返さなければ強くなれないのだとすれば、柔らかいままでいい、筋肉痛も成長痛も要らない、夢にうなされて絶望を引き摺った満員電車の往復、そのどこに人生が挟まっているのだ?怒り、怒り、怒り、理不尽に打ち勝つために私も理不尽を身につければよいのか?戦う姿勢を身につければいいのか?違う違う、極端になるな。優しいまま強くなれる。優しい奴と強い奴は決して決して矛盾しない。

光、光、光、光を求めようとするから出会えないのだ、自分が今光の中にいることを自覚するのだ。それでも破壊を繰り返し、強くなるしかないのだ、もう二度と逃げたくないって泣いたのを忘れたのか。

かわいいさみしいブロックしてる

かわいいさみしいブロックしてる。寂しさはエゴで、はしたない、と同時に、矜恃であり私だけのものだ。素直に寂しいという愛着を私は持っていない。そんな安寧は極めてレアな物だ。さみしーよぅ、さみしーよぅ、だーいすき、はしたない。そんなもの自分で何とかしろ。流れてくるかわいい流行りもの、それが正しいとされる世界、嫌い、素直になったら?言葉に出したら?って私を変えたがる世界、嫌い。他人に身を寄せられることを、身を委ねることを、幸せと思える人間になりたかった。愛をブロック、神様ブロック、世界ブロック、私はわたしと一人でいる時最も私で楽しくて、迷惑をかけずにいられるから。もうこないからねー。