cliché

駄文書き。amazarashi/歌詞考察/哲学/本や映画の感想/その他もろもろの雑感 について語ります。

「『ルックバック』内の表現に関する意見」に関して思うこと

「ルックバック」、読んだ。最高だった。

元々チェンソーマンは勧められて読んでいたこともあって、藤本タツキさんはやっぱりすげえやと思った。

私が漫画家じゃなくて良かった。絵を描くことを生業としていなくて良かった・・・と思ってしまうのは不謹慎というか、筋違いかも知れないけれど。

 

まあ、いいんだ。「ルックバック」が素晴らしかったのは言うまでもない。言う言葉が見つからない。本当は「言葉が見つからない」なんて言葉を使って、言語化から逃げるべきではないのだけど、もう何万人という人がこの作品の密度に匹敵する感想を投稿しているのだから私なんかが言えることはほとんどない。

 

ほとんどないけれど、憤っている。

 

というのは、ルックバックが投稿されて数日経った今、マンガ内の表現に対する抗議が一部で話題になっていることだ。というか、それに対するTwitter上の反応と言った方が齟齬がないかもしれない

 

「マンガの中に出てくる殺人犯は統合失調症の患者として描かれている。その表現は統合失調症の患者に対する差別を助長する危険性を孕むのではないかと主張したい。」

抗議の内容は、平たく言えばこのようなものだ。(参考元:

mmkanimm.hatenablog.com

 

前提として、私は「作中の殺人犯が統合失調症として描かれていると感じる」ことに同意する。公開日や細かな描写からも、京都アニメーション放火殺人事件のオマージュである可能性は高い。「芸術家が大量に殺される」という構造で、かつ殺人鬼の言動に共通項があればあの事件を連想しない方が不自然だと思う。さらにいえば、あの事件を思い起こさせないようにする方法はいくらでもあったはずで。現実にあったあの事件を基調として書かれているとアタリをつけるのは自然なことだと思う。

さらに、殺人犯の供述する「激しい被害妄想、幻覚や幻聴」は統合失調症の代表的な症状の一つだ。もちろん他にもそういった精神病はあるし、統合失調症だけではない。(というか個人的には統合失調症以外の病にも「○○=危ない」みたいな偏見がはびこっているとは思う)けれど、もしたとえそのような意図がなかったとしても、そう受け取れる文脈が揃っている。正解か不正解かが問題なのではなく、そう解釈される要素がある、という部分が重要なのではないか。

 

また、「統合失調症の患者の差別を助長するものではないか」という主張も完全には否定できかねる。

「精神病」とは、そもそもセンセーショナルなものなのだ。勘違いしないで欲しい。だから優遇しろ、だから表現規制をしろ、そういう浅はかなことを言いたいのではないのだ。ただ当たり前に、当事者は世間からの「まなざし」に敏感なのである。敏感にならざるを得ないのである。なぜか。京都アニメーションの事件の時、「これだから~~は」といった文脈で語る人がたくさん居た。「統合失調症=危ない」というまなざしが、実際にあったじゃないか。「私はそんなこと思ったことも言ったこともないワ」じゃないんだよ。実際に、リアルでもネットでもそういう意見があった。なかったなんて言わせない。

社会学的に言えば、このようなまなざしのことを「スティグマ」というのだけれど、こういったスティグマを払拭するためにあらゆるマイノリティーの人が努力している。例えばLGBTQや異国籍の方はそういった葛藤が多いと思う。例えば、今より昔は「レズビアンやゲイ=性に奔放、危険」みたいなスティグマがあった。今、最先端のカルチャーでそういったスティグマを孕む表現をしたらめっぽう怒られると思うんだけれど。なので、このようなセンセーショナルなイメージを表現するとき、そこには必然性が必要であると思うのだ。

 

藤本タツキ先生の描写に対して、私は悪だと思わない。

「ルックバック」の物語の中で、事件が起こるのは必然だった。主人公が喪失を体験する必要があった。また、「ルックバック」はあのリアリティーと、時間軸のゆがみによるファンタジーみが魅力の一つにあると感じる。

そのため、あの殺人犯が、登場人物に接触する理由が必要だった。そして藤本タツキ先生には先生なりの、込めたメッセージや思いがあった。何かを陥れたり何かに色を付けるための漫画じゃなかった。だからみんな心動かされた。Twitter中で「ルックバック」の話がたゆたっている。みんな感動したんだ。

 

だからこそ、「差別を助長するなんて主張をする奴こそが被害妄想にかられている」「これだから・・・」「漫画と現実の区別もつかないなんて」みたいな言葉が出る人がいるのでしょう。

作品が好きだから。作品を守りたいから。こんな素晴らしい作品のケチをつけるやつは誰だと憤るのでしょう。その心意気はきっと悪じゃないですよ。ネット特有のノリ。軽いジョーク。自分が間違っていると思うものに対しては何を言ったって良いと高をくくっている純粋な精神なんでしょう。

そもそもこの主張をしている方のブログをみんな読んだのか?すごく言葉を尽くしている。漫画に対してもタツキ先生に対しても敬意を払っている。

 

漫画と現実の区別なんて当たり前についているんですよ。ついているからこそこういった主張が現われるんですよ。差別や偏見、尊敬や疑念、人間が抱える「まなざし」の多くは、カルチャーから生まれたんだ。スポ根漫画を見てスポーツを好きになったり、スポーツ選手に憧れを持ったり、囲碁や将棋などの「自分が知らない文化」をカルチャーを通して吸収して、それが社会的ブームになったりしたでしょう。ドラマや映画から流行りは生まれるし、小説やゲームが人格形成に大きく影響した人もいるでしょう。

どうしたってこういう時は、漫画とリアルの区別をつけなさいよwみたいな風に言うんだ。

せめて言葉を尽くそうよ。

 

「作中に統合失調症なんてワードひとつもないじゃんw」じゃないんだよ。そう示唆されてしまう枠組みが社会の中にできていて、少なくともブログの筆者は当事者としてそう感じたのでしょう。「ルックバック」を攻撃している訳ではなく、その裏にある危険性を感じとったから主張したまででしょう。そうやって個々の感じたことを共有し合って解釈し合って、答えのないまま全部を正解とさえ見ることができるのが文学やカルチャーの良き所ではないかと私は思うのだ。

 

繰り返すけど、私は「ルックバック」にものすごく感動したし、統合失調症の当事者の方の意見も貴重な言葉だと感じてる。憤っているのはその周りの、考えることや言葉を尽くすことから手を抜いている人の言葉だ。

当たり前だけど、どうにもならないものだよ。ただ怒ってるってだけだよ。この文章で何か変わるなんて思ってないし、もっと的確な言語感覚を持っている人が既にたくさん意見を述べてきた。で、そういう人の言葉も結局浸透はしなかった。でも本当はこんなことあっちゃいけないって思ってる。憤ってる。

 

 読みにくい文章ですみません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

好きという気持ちはただの我儘

 

 

谷山浩子さんが好きだ。大学受験に追われていた頃、私はよくiPodで谷山さんの曲をかけながら勉強していた。幻想的な曲、ユニークに狂ってる曲、優しい歌声、安心するメロディー。何より、すごく人間味のある歌詞が好きだった。

いや、人間味のあるって言葉は人間味がないな。リアルかって言われたらそうじゃないのだ。なんというか、体温を感じる。書き手の温度を感じる歌詞が多いのだ。

 

「好きという気持ちはただの我儘」という一文から始まる、「ボクハ・キミガ・スキ」という一曲は、特に印象的な歌だった。好きという気持ちはただの我儘。そりゃあそうだし、そりゃあそうなのだけど、すごく納得できるのに、私は誰かに言って貰えないと確信が持てなかった。

 

いや、indigoの曲からみる恋情とかいって記事を書いていたくせに真逆のことを言うなという人もいるかもしれないけど。恋心って尊い、人間みんな愛おしい!って思う日と、本当に好きってキモイなー、人間って醜いなと思う日と、それぞれあるのだから仕方がない。

 

ボクハ・キミガ・スキ

https://sp.uta-net.com/song/118388/

 

 

話は戻るけれど、好きって気持ちは持て囃されすぎだ。勝手に期待されて、勝手に失望される体験を何度か経験したことがある。

中学の時は、ろくに話したこともないクラスメイトに好意を寄せられて、それを知った別のクラスメイトにからかわれたりした。勝手に「〇〇の女」とか言われて、お似合いだねーなんて揶揄されて、本当に恥ずかしかった。告白されたので、本人に私の何が好きなのか聞いたら、「真面目で大人しそうなところ」と言われた。なんにも分かっちゃいないと思った。あなたはただ、自分でも話しかけられる、立場の弱い人間に好意的だっただけだ。私が友達とはしゃいで笑いあっていた時、急に「意外とおしゃべりなんだね」って引いた様子で話しかけてきたのがその証拠だ。結局その人とはそれ以上特に話すことはなかったが、それでもクラスメイトに「〇〇とどうなの」と聞かれたりして、正直迷惑でしか無かった。みんな恋なんてゴシップだとしか思っていない。誰が付き合って、誰が別れた。その始点と終点に興味があるだけで、その過程もその為人も、本当に興味を持っている人間なんてひと握りだ。

 

別の時には、仲良く遊んでいたグループ内の友達に好意を伝えられたことがあった。仲良くと言っても知り合って数ヶ月程度の関係だし、なんやかんやあってその人のことを友達としかみていないことは彼も承知の上だったのに。どうして打ち明けるのだろうと思う。打ち明けて気持ちが整理されるのは貴方だけだ。私は細心の注意を払って、間違った選択肢を選ばないように気を使って、そういう精神のすり減らしを勝手に強いられている。その人が何も言わなければ、私はそんな気を遣う必要などなかったのに。仲のいい友人Aさんは、仲のいい友人Aさんによって消されたも同然だ。何を語るかが知性で、何を言わないかが品性だというつぶやきが流れてきたことがあったけれど、全くもってその通りだと思う。黙れ、と思う。どうして黙れない人間ばかりなんだ。

 

好意に応えなかったから冷たくされることもあった。「ああこの人は自分のものにはならないから、これ以上仲良くしていても時間の無駄だ、次のターゲットにいこう」っていう思考回路なんだろうけど、あんまりだよね。私は本当に人間として好きだったし、友人としてこれからも仲良くしたかったのに、まるで私が悪魔みたいな扱いをする。

 

かと思えば、ちょっとおだてたり人当たりよく接すると「思わせぶりだ」とか言われる。好きなんて言ったことないのにね。「好きじゃなかったらできない」なんて言うけど、あなたは私なのか、とおもう。知ったかぶって、自分の見たいように私を見ているだけだ。好意を返さなかったらまた嫌われるから、返していたら言質を取られる。キモイ。人間って本当にキモい。キモイって言ったら人の心がないって言われる。きっと最低だねって陰口を言われるんだ。居なくなりたい。高校の頃は好きという気持ちは弱みだと思っていた。今もそう思う節があるけど でも毒でもある 毒っていうのもコミカルすぎるな とにかく嫌いだ。好きって気持ちはただの我儘。

酷い乱文ですみません。

inidigo la endから見る恋情②「チューリップ」終わらせた恋

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チューリップ

youtu.be

「チューリップ」は2020年にリリースされた楽曲。結構最近の曲だけれど、すでにyoutubeでは600万以上再生されていて殿堂入りしそう。

 

終わらせた恋

あなたが切った夜は少し大きすぎた
雲ゆきはずっとわかってたけど
一縷の光に期待してたの

 この曲の登場人物は「私」と「あなた」。あなた、という言い方から、主格よりも主格の好きな人の方が精神的立場が上なのかな、とか思う。

主格の恋はずっと報われていなくて、最初からあなたに振りほどかれている。

それでも、「自分は馬鹿だから」と言い聞かせてしがみついていた姿がけなげに映る。

 

過去にならなきゃ2番目でも構わないって
口を開こうとしたけど
閉じてしまったものは
もう戻らなくて

この自分の気持ちを犠牲にしてまで相手に尽くす心って、普遍的だなあと思う。恋に限らずとも、「何番目でも構わないからここに居させて」という気持ちは日常の至る所に潜んでいますよねー。

 

川谷絵音は言葉遊びがすごく上手で、時々韻を踏んだり比喩を巧みに使ったりする。この歌でも、一番では「優秀賞なんていらない」、二番では「憂愁に閉ざされていた」という書かれていて「ゆうしゅう」が重なっている。こういう遊び心というか、仕掛けが好き。

 

さらにこの曲の仕組みとして面白いのが、白いチューリップと赤いチューリップを用いて二人の関係性を表していること。

赤いチューリップの花言葉・・・「愛の告白」「真実の愛」

白色のチューリップ花言葉・・・「失われた愛」

後半で、

赤かった2人は今日で終わって
雪に混じり合った
あなたの望む色になった
ああ、寒いな

という一節がある。

これは両思いだった二人=赤いチューリップが、雪に混じり合ってあなたの望む色=白いチューリップ=失われた愛になった、という描写であると読み取れる。

 

一番好きな箇所

さよならが
もうどうにもならないなら
せめて私を寒くなさって

「寒くなさって」という表現すごくないですか?冷たくして、とかあなたの手で終わらせて、そういう意味合いだと思うのですが、「寒くなさる」という風に表すの美しすぎて驚愕する。

 

メロディーについて

感想のギター超かっこいいよね。コーラスによって歌声が柔らかい印象になっているのも好き。全体的に寂しくて叙情的だけど、リズムが軽やかでかつ絵音さんの声質がサラッとしているので重くなりすぎていないのも良い。

 

まとめ

今回は「チューリップ」を聴いて、終わらせた

恋について見てみました。次は「悲しくなる前に」について書いていこうと思います。