ちゃんと、性善説について考えたい
性善説、という言葉が信じられない。
そういう人は一定数いる。私もその一人だった。
実際、高校時代性善説と性悪説を習った時、クラスの中で意見が真っ二つに分かれたのを覚えている。
「”人は生まれながらに善な存在”なんて、そんな能天気な言説受け入れがたい」。
そんな意見もネット上で散見される。
こういう議論は得てしてカオスを極め、中には反対意見を論破するためにトゲトゲし始める人もいる。
だけど、その中で本当に性善説と性悪説を理解している人はどれだけいるんだろう。
こういう話に明るい人は、ああまたか、と思うかもしれない。
もう擦られた話題だと思う人もいるだろうけど、自分で理解するためにもきちんと整理をしておこう。
ちゃんと性善説について考えるために。
そもそも性善説・性悪説ってなに
短い言説は、誤用されがちだ。人の解釈によって意味が移ろう隙があるから。
例えば、
「人は生まれながらにして善き存在だと信じるべきだ」とか。
「人は生まれながらにして悪だと疑え」とか。
「性悪説を信じている人は己の心が悪だから人を信じることができないんだよ」とおっしゃる人もたまにいる。
完全なる誤解だ。
本来の意味は、
性善説「人は誰だって人の悲しみを見過ごせない優しさの種を持っている。でも外部からの悪影響は受けてしまうから、立派に種を成長させるためには教育が必要なんだよ」
性悪説「人は生まれながら、利益を追求したり嫉妬したりする弱い心の持ち主だ。だから、後天的に善を教育してもらう必要があるんだよ」
という意味。
孟子は「生まれながら」人は善きものなんて言ってないし、荀子も「人間みんな生粋の性悪だぜ」みたいなことは言ってないんだ。
ここの解釈が間違ったまま、気軽に「どっちを信じる?」なんて話題にすると、議論がカオス化してしまう。
そもそもこの言説は、人の善し悪しについて本質情報をお届けしたいわけではなく、教育のありかたについて説いた政治論だということを知るべきだ。
そもそもの始まりは性白紙説
まず、はじまりとして告氏が言った「性白紙説」がある。
性白紙説とは、「人の本質は流動的で、善悪どちらにいくかわからないもの」という主張。生まれながらにして善な人もいれば悪な人もいるでしょという至極まっとうな意見だ。
それに対して、ん~そうかなあ?と反論したのが孟子の「性善説」。
さらにその孟子にワシはこう思うで!と反論したのが荀子の「性悪説」ということだ。
性善説の意味
このサイト様がわかりやすいので参考にさせていただく。
孟子は、人間は生まれつき善の兆し(善の種)を持っている、と主張した。
善の兆しとは四つの心のことで、
惻隠とは何か…他人の苦しみを見過ごせない憐れみの心
羞悪とは何か…不正を恥じる心
辞譲とは何か…謙譲の心
是非とは何か…善悪を分別する心
に分けられる。
「例えば、井戸の中に赤ちゃんが落ちそうになってるのを見ると、誰だって「あっ!やばい!」ってヒヤッとするでしょ。それは人の悲しみを見過ごせないからなんだよ」と孟子は主張するわけだ。
続けて、この種が立派に育つと、『仁・義・礼・智』に変わっていくという。
仁とは何か…人を思いやり尊重する心
義とは何か…正義を守る心
礼とは何か…社会秩序を守る心
智とは何か…聡明さや知恵のこと
孟子は、「じゃあなんでみんな善の種を持ってるのに犯罪を犯したり性悪なひとがいたりするの?」という質問には、こう返した。
「悪」は社会(=外部)の中にあって、この影響を受けることで優しさの種が曇ってしまうから。
つまり、社会の中の悪は後天的なものなんだよ、と。
荀子の反論
ここで荀子は反論する。
「人は生まれながらにして、利益を追求したり嫉妬したりという弱い心を持っているんじゃないか。例えば、美しい景色とかおいしい食べ物を独り占めしたくなるのはもう人の生存本能だよ。でもその欲望のままに動いたら社会秩序なんかぐちゃぐちゃになるから、ちゃんとした教育で善を身に着けていかなくちゃいけないんじゃない?」と。
実際、人は動物なわけで、縄張り争いをしたり食料を多く取ろうとしたり、人より有利な立場に立とうとするのは生物として当たり前だ。
でも、優しい心を教えられることで人は善き存在・社会に近づけるんじゃないか、と言いたいのだ。
性善説と性悪説は正反対な言説に見えて、結論は一緒で、「良い教育と政治が大事」と言いたかったのだと。
となると、どっち派?って質問はナンセンスなのかもしれない。「優しさの種」も「生存本能」も、共存しうるもの。
結局人間ってどうなの?
じゃあ性善説とか性悪説とか抜きにして、人間ってどうなの?って聞かれたとしたら、私は告氏の「性白紙説」に賛同する。結局原点回帰だ。
猫派犬派?って質問にウサギですって答えるような卑怯さがあるかもしれないけど、一番この考えがしっくりくるんだよなあ。
性白紙説
孟子が生きた時代は人の本性についての関心が高まり、「性には善も悪もない」とする告子の性無記説(または性白紙説)や「性が善である人もいるが、悪である人もいる」とする説、「人の中で善悪が入り交じっている」とする諸説が流布していた。*1
再度言うけど、これにつきると思うんだよ。
(ちなみに一般的には性無記説というらしいけど、性白紙説の方がダンチでかっこいいのでこの呼び方を推す)
この考え、ロックのタブラ・ラサとほとんど同じ考えなのも興味深くて結構好きなんだ。
それに、生まれたばかりのまっさらな状態の時って優しさの種だって持ってないと思うし、他人を蹴落とそうとする感情とかも持ってないでしょ。何にも考えてないでしょ(語弊)。
しかも社会通念としての「善悪」って移り変わるし、教えられて知るものじゃない。「赤ん坊が井戸から落っこちたら死ぬ」って知らなければ思いやりの精神だって持てないじゃないか。
儒教のえらい人たちが、一体何歳頃を起点にして言説を唱えていたのかわからないけど・・・
自分の中では性白紙説が一番しっくりくるな、と思った。
長々と、読んでくれた方ありがとう。
自分なりの人間について考えてみるときっと面白いと思います。
自己肯定感が低いことは素晴らしい
タイトルにあるようなセリフを、あえて言ってみる。
「自己肯定感が低い」と言っているうちは、たいして低くないのかもしれないけれど、私はあまり自分が好きではない。自信とか、自尊心が少ない、気がする。
それは良くないことで、改めるべきことだと思っていた。実際、YouTubeでも自己啓発本でも、「自己肯定感を高めましょう」みたいなコンセプトのものが話題になっている。
でも、先人のありがたい知恵を借りてもそう簡単に自分のことは好きになれないもので。自己肯定できなくて自己肯定感が下がる、みたいなトートロジー。
次第にやけくそになってきて、開き直った結論がこれだ。
自己肯定感が低いことは素晴らしい。
大きく出たな。だけど実際、悪いことばかりじゃないのだ。
どんなメリットがあるのか、一つずつ説明しよう。
①自分を高められる
前置きしておくけど、ここで話すことは個人的に感じるメリットだから・・・自己肯定感が低い人は必ず上昇志向です☆みたいな意味合いではないことを補足しておく。そして別に私も全然意識の高い人間じゃない。
じゃあどういうことなのかっていうと、自己肯定感が低い人って、ベースとして「自分はダメな人間だ」「自分はヘンテコだ」みたいな認知を持っている。自分の評価を低く見積もりすぎている、といったほうが近いかもしれない。
わたしなんかダメだ、無能だ、とうなだれて、少しでもましな人間になろうとあがいて苦労して・・・って人が多い気がする。
自分が悪い、をベースに生きているから、自分のスキル向上に前向きというか・・・
「周りに迷惑かけまい」という意識が先行して、実は平均より頑張ってて成長性がある、みたいな現象が起きがち。
そのくせ、自分より上のレベルの人をデフォルトで見て、それを基準にしているから、「自分なんてまだまだだあ」って思っている。もう十分自分を褒めてあげていいのに、自分自身の粗探しをしているせいで認められない、ってこと、あると思う。
しかも無駄に反省会を開きがちで、夜ベットの中で悶々と自分の改善点を考えてたりする。
ナチュラルに上昇志向というか。
②人の痛みに気づきやすい
もちろんこれも比率の問題で。全然他人のこと考えてない人ももちろんいます。
でも、自己肯定感が低い人って繊細な人とか完璧主義な人が多くて。
細かいところによく気が付くから、人の痛みも気づきやすい傾向にある。
あと、家族間や幼少期に何かトラブルを抱えていたパターンの人も多い。
その分悲しみのセンサーっていうか、共感できるアンテナみたいなものが強化されていて、人の気持ちに寄り添いやすい人が多い気がする。
あと謎に自分が加害者になり得ることを本能的に理解していて、誰かを傷つけまいとビクビクしてませんか。
「私なんかがいらないことを言って空気を悪くしたかも・・・」
「今の発言でこの人傷ついたかも・・・」
的な。
そんなに深く考えなくてもいいと知りつつ、めちゃくちゃ気を使っちゃうんだよねえ。
③優しくなれる
このタイプの人は、
「こんなわたくしめを労わってくれて・・・申し訳ない・・・ありがたい・・・」
って思う機会が自己肯定感が高い人より圧倒的に高い。
いわゆる”よっ友”に挨拶されただけでも、「こんな私に、挨拶してくれるなんて、すごくやさしい・・・」と感激する。
相手としては社交辞令的に飲みに誘われたり、プレゼントをもらった時だって、
「自分なんかを誘ってくれるなんて、良いひと!きっと社交辞令で仕方なく誘ってくれてるんだろうけど・・・いや、もしかして何か裏があるのかも。怪しい仕事の勧誘かな・・・そんなことを考えるなんて私ってばひどい人間・・・」
なんて考えたりする。
それに対しての対価も丁寧に払うしね。
自分はすぐ嫌われて当然な人間だと思い込んでるから、尽くしてくれた人は忘れないし恩は1.5倍で返すスタンスをとっている。
とっても謙虚で、優しい人間じゃありません!?
なんてね
まあ、8割自分を正当化するための自己満な列挙になってしまったけど。
わかるなあって人多いでしょう、この現代社会で。
もういいよ。自分のこと好きになれなくていいよ。なろうとしてるだけ偉い。
そもそも、自分のだめなところもいいところも受け入れて、「そんな自分でもいーよ」ってすることが本当の意味での自己肯定だ。
「自己肯定感低くていーよ、低いのだって悪いことばかりじゃないよ」って思うことが、結果的に自分のためになるなら素敵じゃないかな。
「変化する」という武器
私の好きな言葉の一つに、「変わらないために変わり続ける」ってのがある。これ単体で何か書きたいくらい好きな言葉なんだけど。
自分を好きになるために、自分を好きで居続けるために、私たちーー自己肯定感の低い人たちーーは自分を変えようとする。
小さなミスでも自分を責めて、嫌って、二度としないぞと心に決めて、また挫けて・・・。
もっと”出来る”人を見上げて、自分を責めて、追いつけるように頑張って・・・。
こうやって自分を変えられることって、素晴らしいことだと認めよう。
自分を過小評価して、うなだれる時間をあえて褒めよう。
変わろうと思えるのは武器だよ。
そして今、「そう思っているだけで全然変わってないんだからダメだもん」ってため息をついた謙虚さはパワーだよ。
私は愚鈍にそう結論付ける。過去の自分も未来の自分も認めたいから。
自己肯定感が低い私、神^^くらい思っとく。
古本の向こう側を考える時間が好きだ
単純な話なんだけど、中古で本を買うのが好き。古本屋さんが好き。作者への還元を考えると、あんまり大きな声で言えないかも知れないけれど、好きだなあと思う。
理由は値段じゃなくて(値段も0ではないけど…)、前の持ち主の人となりがうっすら見えるから。
ああ、この人頑張りやさんなんだなあとか、この問題をよく間違えたんだなあとか、字が綺麗だなあとか考えてしまう。気持ち悪いのは重々承知。
メルカリってそういう意味では面白くて、出品してるものをざっと見るだけでもなんとなく人物を想像できちゃう。使い古した医学書や歴史書ばかり出してる人をみると、聡明な人だな・・・って思うし、おしゃれなかわいい洋服や雑貨を出している人がいると、可愛らしい女性かなあとか断捨離してるのかなあとか思う。余計なお世話だ!って声が聞こえてきそう。
まっさらな新書も好きだよ。自分好みの本に出来るし、少しよれてきても「こんなに読んだんだ!」と思う指標になる。
でも古本も古本で、歴史というか人生を感じるから、イイ。多少書き込みやマーカーがあってもほっこりする。
世界一短い小説
あ。なんとなく思い出した話がある。「世界一短い小説」またの名を「フラッシュ・フィクション」。
「売ります。赤ちゃんの靴。未使用」
For sale: baby shoes, never worn
ヘミングウェイが作ったという逸話が残っているこの一文。始めて聞いたときはなかなか忘れられなくて、こんな短いセンテンスの中に膨大な物語が閉じ込められている可能性にビビった記憶。たった6語しかないのに、この靴を売ることになった経緯とか、親御さんの気持ちを考えてしまう。
そうぞうするために生きる
人はなんのために生きると思う?と聞かれたとき、私はよく「感動するため」と答えていた。
もしかしたらネコちゃんやイヌちゃんも感動しているかも知れないけど、何かを想像して、感動して、創造できるのって人間の特権だと思うんだ。
子どものころから、私達はごっこ遊びをしたり空想で物語を作ったりして、日々何かに感情を動かされながら生きている。
生きることに意味などないと思っているけれど、あえて答えを出すならば「そうぞうすること」なんじゃないかなあ。とか、中古で買った本の、書き込みを前にして考えてみる。