我渇望する 故に我あり 「たられば」
「たられば」amazarashi
https://j-lyric.net/artist/a052b38/l042262.html
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アーティストの作品を素人が分類するのは無粋なことだと承知の上で、amazarashiの曲を大まかに三つに分けてみる。大方、「詩」、「手紙」、「小説」に分類できるだろう。この方法でいうと、このたらればという歌は「手紙」に入る。amazarashiの曲の中では比較的わかりやすい言葉で書かれていて、語りかけられているような詞が特徴的だ。
もしも、という問はいつも私たちを苦しめる。人生は取り返しのつかないことの連続だから、定期的に失敗を取り上げては何かを責めてしまう。己の人生のパラレルワールドを妄想して、折り合いをつけ続けるしかないのだ。
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もしも僕が王様だったなら嫌いな奴は全員消えてもらう僕以外、みんな居なくなるかもななら僕が消えた方が早いか
歌詞の中で印象的なフレーズのひとつだ。
ここで「ジュブナイル」の『人間嫌いというより人間嫌われなのかもな』というフレーズを思い出した人も多いだろう。自分は物を思う葦であると同時に、世界から思われる葦であると再確認させられる。この言葉遊びにも似た反駁的な問いは、amazarashiの作品中で度々見受けられる。
例えば他にも、「夏を待っていました」では
ここに居たくないってのとどこかへ行きたいってのは同じ意味なのかなどっちにしろ歩こうか
という歌詞がある。
ここじゃないどこかへ向かう、という心はamazarashiの核の一つだろう。
前回振り返った「光、再考」でも、「夏を待っていました」でも、他にも多くの楽曲で「ここじゃないどこかへ」向かう――這う、と言った方が正しいかもしれないが――ことを歌っている。
もしも、と願ってしまうのは、これから起きる悲しき未来に備えるために、今眼前にある分岐点を正しく選択したいからだ。何度も選択して何度も間違って、何度もたらればを繰り返して、そしてそこに何度も薄ら明かりが差す。間違いであれなんであれ、たしかに目の前の壁を掘り進めて私たちは生きてきたはずなのだ。
もしももう一度僕をやり直せるなら、きっと今より良い選択をする。そうしてある程度整備された道は、果たして本当に自分の人生と言えるだろうか?いいやそうは思わない、という反語的な懐疑心が、最後の歌詞に含められていると解釈する。