幸せのために不幸を求める私たち 「ハッピーマニア/安野モヨコ」
「ポルノ映画の看板の下で」
https://j-lyric.net/artist/a052b38/l023498.html
恥ずかしながら、今まで安野モヨコさんの作品は「オチビサン」しか読んだことがなかった。それも小学生の頃新聞の連載漫画で知っただけであったが、絵のゆるさの反面、とても深くて考えさせられる回が多かった記憶がある。
そんな中、最近になって漫画サイトで「ハッピーマニア」と遭遇して、軽い気持ちで読み進めたらすごく面白かった。しかも、思いがけず自分の考えていることと漫画のテーマが被っていたため、せっかくだからなにか感想を遺しておこうとこの記事を書いている。
この漫画の内容は、ざっくり言うと主人公の重田かよこが自分の幸せを探す話だ。主人公の重田(二十代女性)は典型的なダメな女の子で、恋愛にかまけて仕事もおざなり、衝動的に動いて失敗ばかり繰り返すそんなキャラクターだ。
元彼のセフレになったり、ダメ男を愛したり、不倫をしたりと、ダメな恋愛に何度ものめり込む。
どうしようもなく見える彼女だが、意外に人情に厚かったり、おどけたピエロになって友人を助けたりするから憎めない。
せっかく誠実そうな男性にプロポーズされても、何か違うと思ってはねのける。
その際、結局自分は何が欲しいんだろう?と悩み、彼女はこう結論付けた。
「震えるほどの幸福が欲しい」
「幸せって、しびれるようで、くるくるまわって、甘くて苦しくて目頭がアツくなるようで、よくわかんないけどそんなかんじなんだよ」
「わかるのは今のコレは、幸せじゃないってことだけ」
自分を愛してくれるハイスペックな男性にプロポーズされて、一般的に見たら彼女は幸せなはずなのだが、重田の感覚は違った。
パッと見彼女の考えは短絡的なものに思えるが、考えてみれば理にかなっている。我々が「良い時代だった」と振り返るのはいつも過去だ。なにかに向かって努力していた時だったり、なんにもない平凡な日常だったり、その時はなんとも思っていなかったような感情が幸せに繋がっているのだ。
重田は幸せを求めているのに、それは手に入って安寧を得た瞬間失ってしまうものだった。だから何度も幸福を味わうために、結末の見えている恋にハマっていく。泥沼だ。重田もわかっている。
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「光、再考」の記事でも触れたが、人というのは自分のステータスに縋って生きている節がある。
語弊を恐れずに言うが、「死にたさ」はサブカルチャーだ。手首を切ったり、エログロに傾倒したり、諦観している自分に選民思想を抱いたり。本気で明日にでも自死を選ぼうと思っている人にとってはとんでもない話だろうが、「病みかわいい」なんて言葉があるように人の心の暗い部分さえブランドとして成立しているのだ。
顕著なのは創作活動だ。活動スタイルは人によって様々だろうが、誰しも大なり小なり現実世界で生じるわだかまりや想いを昇華させて生産しているのではないか。言ってみれば、人は現実の生活で満たされないから創作活動やアートに籠るのだ。(もちろん息をするように生産する天才型も居るが、ここでは別として。)すると、現実世界が充実していると創作ができなくなるという現象が起こる。そんな経験をしたことがある人も多いのではなかろうか。
何が言いたいのかと言うと、我々は寂しい、悲しい、という割に、そういった負の感情を頼りに生きているのだ。
この思想はamazarashiの「ポルノ映画の看板の下で」でも感じることが出来る。
「辛い辛いとはよく言うが苦悩で死んだ試しはなし寂しげな気分がちょうどいい常日頃私にちょうどいい」。
それならば私たちが幸せになるためにはどうすればいいんだろう。死ぬまで追求し続けるしかないのだろうか。今一度、私たちは幸せについて考えるべきだ。こんな寂しい幸福について。