cliché

駄文書き。amazarashi/歌詞考察/哲学/本や映画の感想/その他もろもろの雑感 について語ります。

希望は絶望の下に咲く 「光、再考」

 

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「光、再考」

https://j-lyric.net/artist/a052b38/l01d501.html

 

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生まれ変わったら鳥になりたい、というのが小学生の頃の答えだった。自由に空を飛んでみたい、気ままに生きてみたい、なんて理由をつけて。この回答は非常にありきたりで、大多数のクラスメイトと被ることになる。まだほんの10年前後の人生でも、ずいぶん厭世的なことを考えるのだなあと今になって振り返る。

 

大人といえる歳になっても、生まれ変わったら何になりたい?とよく聞かれるけれど、考えてみなくても愚鈍な話だ。たとえ輪廻転生が本当にあるとして、死んでしまった後のことはわからない。転生した後の人生でも、大なり小なり苦楽があることも皆わかっている。それなのにこうして会話のネタとして市民権を得ているのはなぜだろう。どうしようもないこの問で盛り上がるのは、どうしようもないこの今があるからだろうか。

 

だけれど、そんな人生だって手放すには惜しいものだ。どうにかして手に入れたい喜び、どうしても持たざるを得なかった悲しみ、それが凝固した自分。無価値とも思える日々の動力源は、もはや自分への愛着だけかもしれない。それの何が問題なのか。SNSで顕示欲や承認欲求が許されざる悪かのように叩かれる。けれどみんな何かしらの自分への愛着で動いているはずなのだ。そんなものじゃないか、と思う。

 

だからこそ手放したくなる時がしょっちゅうやってくる。大切なものも面倒なことも脱ぎ捨てて、どこか遠くで非日常を味わえたらよいのにと思う。きれいさっぱり手放せたらそれはそれは楽だけれど、そうはいかないからこびり付いた虚無感と共生するしかないのだよな。何だかんだいっても、美しい景色の下ではこんな世界をいとおしく思ってしまうし、愛した人が理解者になってくれる喜びはしつこい希死念慮だって薄めてしまうほどの力を持っている。

 

私が秋田ひろむさんの歌詞でぐっとくるのは、「それでも青い空が好きだった」と歌えるところだ。卑屈でもなく、諦観でもなく、それでも美しいものには美しいと言葉をかけられるところを尊敬する。絵にかいたような健康な幸福の傍らで、ホームレスの生い立ちを推測してしまう公園で、未来は明るいよ、この道は明るいよ、といえる強さを持っている人がどのくらいいるだろうか。


さっきまで無遠慮な顔で餌をついばんでいた鳩も、くしゃみ一つで彼方へと消えていく。こんなときやっぱり、あの頃みたいに鳥になりたいなんて思うのだけれど、人間は平和や幸福みたいに身軽じゃないからどこへも行けないのだ。いや、どこへも行かないの間違いか。行きたいところへ行きなさい、やりたいことをやりなさいと言われても、些細な夢さえ持たざる人が山ほどいる世の中だ。それでも自分を変えようと何か始めようと奮起する人、夢を探す人、遠くへ行きたがる人、その小さな情熱を消す権利が誰にあるだろう?


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私事になるが、一人暮らしを始めて人の声の温かさに気づくようになった。

一人でいるのは好きだから大して寂しくはないのだけれど、ふと話し声を求めた時、テレビや動画サイトというものはとても救いになる。特別面白くもないチャンネルを付けっぱなしにして、人の声を聞きながら家事をこなすことも多い。その度に、人間と対峙することは苦手だけど人間というもの自体は好きだな、と思う。


朝、彼女が帰ってきて、無垢な笑顔で挨拶をする。秋田ひろむさんは退廃的な産物とイノセントなものを対比する傾向にあると思うが、ここもそうだ。歓楽街のバイトで疲れながらも、それでも夜に染まらない彼女のイノセントな部分、そこをまた美しいと言える主人公。


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大抵の人生は自分のステータスに頼ったり毟りとったり、翻弄される日々だ。

クリープハイプの「私を束ねて」とも重なるけれど、存外人はあるカーストの一員だとくくられることの方が楽だったりする。そうして一度手にした会員証に、安寧を見出して生きている。子供の影遊びみたいに夢や希望を追いかけて、手に入れられないままの情熱を焚きながら生きていきたい。喜怒哀楽、愛別離苦、その間の反復横跳びを繰り返す。

やまない雨はないだとか、明けない夜はないだとか、そんな言葉に絶望して、今現在続いてるどしゃ降りの夜に絶望して、それでも「大丈夫」と言わなくちゃ。また日が差す場所へ行くために、大丈夫と唱える、そんな希望。


ずっと夢や希望って、まるで太陽みたいに明るくて何もかも照らせるパワーを持ったものだと思っていた。暗闇はあくまで暗闇で、大まかにそんな二極しかないと思っていた。そうじゃない、それだけじゃないんだ。暗い部屋に篭って泣き暮らして、ふとそこにさす一筋の光。敵意と不安が満ちた路上で、ふと人の優しさに触れる時の欠片。眩いとは言えないそんな寂光こそが、希望に値すると今再考する。

だからこそ、もし生まれ変わったらなんて言うべきじゃない。暗闇も寂光もまるごと自分なのだから。