cliché

駄文書き。amazarashi/歌詞考察/哲学/本や映画の感想/その他もろもろの雑感 について語ります。

「一つを突き詰めた人じゃなくてもいい」、と誰かに言って欲しかった

 

 

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私は多趣味な方だ。

飽きっぽくて、好奇心ばかり先走って、中途半端なまま情熱を引きずるタチだ。

そんな自分をぼんやり恥じてきた。その一方で、何か一つを突き詰めていくことが良い、みたいな美徳に疑問を感じていた。

今日はそういう自分の話をしたい。

 

 器用貧乏でつらい

私は興味のあることが多い。本を読むこと、絵を描くこと、文章を書くこと、ギターを弾くこと、音楽を作ること。やりたいことや、学びたいこともたくさんある。その一方で、そのどれもが平均的で凡才である。

 

「器用貧乏でつらい」。

そういうと、「趣味なんだから気楽に捉えていいのよ」と優しく言ってくれる人がいる。「それだけ好きなものがあるのはいいことだよ」という言葉ももらう。

 

でも、例えば学生時代部活に全力を注いだ人 とか 夢を追ってバンドを続けてる人 とか、専門学校に行くほど何かが好きだ って人を見ると圧倒される。

好きに一直線な姿は、魅力的でパワフルだ。

寄り道ばかりの私は、どの世界でも一番になれない。

 

一番になるのが大事なのかと言われれば、そうじゃない。例えば私はギターが好きだけど、誰よりも上手くなりたいと思ってる訳では無い。私がどんなに努力しようと、今はるか上にいる人たちに叶うわけないと知っているから。

 

だけどさ、まわりの人間関係の中でだけでも「こいつの右に出るものはいない」みたいな強みがあったらさ、アイデンティティが生まれるじゃない。何者かになれた気がするじゃない?

だけどそんな浅はかな根性じゃ得意になることもならないよねえ。

結局ぼんやりした世界観を持った人間になってる今現在。

 

「続けられることも才能の一種だ」

って言葉がある。

本当だと思う。継続力って才能。

みんな何かを継続させることの難しさに悩んでいて、だからこそこんな言葉が生まれたんだろう。

でも、私にとってこの言葉は、続けられない=無能だ みたいな意味に余剰に歪んで響く。

些細な日課を、継続させることすら出来ない自分。好きなことですら続かないなんて救えない。

器用貧乏の端くれ。代わりのきかないあなたになりたかった。

そういうわけでずっと、私は多趣味コンプレックスだったのだ。

 

ドッペルゲンガーかと思った

 

そういう思いに漠然と苛まれる中、Twitterで流れてきたツイート。

 

 

 

ドッペルゲンガーかと思うほど、自分のコンプレックスを言語化してくれていた。

好きなことが沢山ある人の中で、同じような悩みを持つ人は多いのかもと救われた。

 

マルチポテンシャライトって何ですか

 

それだけじゃない。

件のツイートのリプライを眺めていたら出会ったこの記事。

 

曰く、このような器用貧乏な性質を「マルチポテンシャライト」と称する人がいるらしい。

 

正直、第一印象としては「胡散臭い」だった。すぐに飛びついて、私はコレです!って言いたくなかった。

だってなんか……自分の欠点を正当化してるみたいな、開き直ってるみたいな後ろめたさがあったから。

 

だけど読めば読むほど見覚えがある事柄ばかりだ。

コレをポジティブに表現してくれる記事に対して、まんざらでもない気持ちを隠せなかった。

 

記事の要約

” 人それぞれ個性があるように、「何か一つに熱中できる」タイプもあれば「次々興味のあることに移っていく」タイプもいるんだよ。”

そう説くのは、「マルチ・ポテンシャライト 好きなことを次々仕事にして、一生食っていく方法」の著者であるエミリー・ワプニック。

 

 

 

 そもそもマルチポテンシャライトの由来は何かというと、教育や心理学の分野でMultipotentiality」という言葉があり、日本語だと「多重潜在力」「多能性」というふうに訳せるらしい。

 

このタイプの人は自分のことを

 

・やりたいことを一つに絞り切れない

・飽きっぽい

・最後までやり遂げることができないダメなやつ

 

だと思ってしまう。

 

かくいうエミリーも自身のことをそう捉えていた。

だけど、TEDのスピーチの中で、彼女はこのタイプの人はダメな人間などではない、と主張する。

 

様々なマルチポテンシャライト

彼女によると、マルチポテンシャライトにはいくつかのパターンがある。

 

グループハグ

グループハグとは、一つのビジネスの中で多種多様な分野のスキルを活かすパターンのこと。

 

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 (先ほどのサイトから引用)

 

 スラッシュ

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多様な「得意」が散在しているタイプ。イメージ的には、アルバイトをたくさん掛け持ちしているひと。

 

 アインシュタイン

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主流にしている仕事が一つあって、それ以外にもたくさん得意なことがあるタイプ。

 

 

 フェニックス

(いちいち名前がかっこいいな・・・)

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興味が時代によってどんどん移ろっていくタイプ。どんどん転職して新しいことを始める人などに多い。

 

人それぞれ違うけれど、だいたいこのようなパターンで物事に興味がうつろってゆくんだとか。

私は当てはめるとしたらスラッシュかフェニックスだろうか。好きなことがドンドコ増えては浮気していくので……。

こんな風に自分の移ろいを分析したことは無かったので、すごく面白い話だな……と思った。

 

「1つを突き詰めなくてもいい」って誰かに言って欲しかった

ずっと努力できない自分のことが嫌いだった。

お母さんにもよく「集中力がないなあ」と言われて、その度に頑張らなくてはいけないと思っていた。

特技や強みを答える時、なにかワンクッション言い訳をしないといけない自分がやるせなかった。

だけど本当は「それも個性だよ」って、「たくさん可能性を持ってる人だよ」って言って欲しかったんだ。

 

まだ、マルチポテンシャライトについての研究は少ないし、中には賛同できない人もいるだろう。

だけど私はこのプレゼンテーションにすごく力をもらったよ。

 

潜在的な可能性を秘めているんだと思いながら、自分の好きなことを好きなだけやってみる。そうしたらきっと、私らしい何かが確立されるかな。そう信じよう。

 

最後に、私と同じような悩みでもやもやしている人にもこの記事が届くといいなと思っている。悩みが抹消される訳ではないけど、何かの解決の足がかりになるかもしれないから。

 

 

 

 

 

 

 

「『当たり前』を疑う学問」ーー社会学っていったいなんだ

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社会学って何?」

 

って質問は、社会学部あるあるクエスチョン。そして、とっても困る質問ナンバーワン(私調べ)。

 

だいたいこう聞かれると、「うーんと心理学みたいな感じで人間の……行動原理とかを学びます」としどろもどろに答える。

 

もっと具体的に……と言われて、「福祉とか……哲学とか……」と返すと、「あ、そういう感じね!難しそう!」と言われがち。

 

むず痒い。上手く伝えられないこの気持ちがむず痒い。

でもある授業で、教授が「このテの質問って難しいんですよ〜範囲が広いからねえ」ってボヤいているのを聞いて安心した。教授が答えにくい質問に私がスラスラ答えられるわきゃない。

 

だって、本当に様々なんです。

哲学や心理学はイメージしてもらいやすいと思うけど、街づくりとか統計学とか経済学とか福祉とか、もろもろ全部含んでるとなると訳わかんなくなってくる。ごった煮学部。社会学を超絶理解してる学生ってどんくらいいるんだろう……。

 

 

 

Wikipediaを頼ってみる

 

こんな時は我らのWikipediaに頼ってみよう。

ja.m.wikipedia.org

どれどれ……

 

社会学(しゃかいがく、仏: sociologie)は、社会現象の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズム(因果関係)を統計・データなどを用いて分析することで解明する学問である。

 

漠然!

 

思想史的に言えば、「同時代(史)を把握する認識・概念(コンセプト)」を作り出そうとする学問である。

 

 

漠然〜〜!

 

そもそも「社会」学というふんわりした名前がいけない。

 

経済学→経済の事ね

法学→法律とか学ぶのね

神学→宗教的な?神様的な?

心理学→人の心を学ぶんだね

 

社会学→社会?西暦とか覚えるの?

 

ってなるやろがい!

 

なんでこんなふんわりした名前なのかって、さっきも言ったように社会学って広範囲かつ包括的な学問なんですね。

 

社会学って名前を生み出したコントによると、「社会学歴史学、心理学、経済学を統合する実証主義な科学的研究でなければならない」らしい。

 

うーんイマイチ理解しにくい言い方だけど、とにかく社会学ってのは包括的な話なんです。

 

社会学はすぐそばにある

 

説明がごたついたせいで、ふーん、よく分からんけど色々やってんのね ってだけで終わってしまったらもったいない。

ほんとは社会学はものすごく身近で、めっちゃ面白い分野だって事を伝えたい。

 

もし社会学にキャッチコピーを付けるなら、『「当たり前」を疑う学問』って感じのが主流でしょう。

自分にとって当たり前のことが、自分が生きているこの社会の中でどういう位置付けになるのか考えられる学問なんです。

 

 

じゃあちょっとここで閑話休題

この学問を身近に感じてもらうためにも、私が「面白い!」って目からウロコが落ちた社会学用語を2つお話します。

 

ドラマツルギー

たとえばこういう事を考えたことありませんか?

「気を許せる友達とそうじゃない友達とだと、すごく人格が変わってしまう……」

「バイト先に友達や知人が来るとなんとなく落ち着かない」

「自信はないけど、リーダーを任せられたからリーダーらしく振る舞わなきゃ……」

 

この気持ちはだいたいドラマツルギーという社会学の現象で説明できます。

 

ドラマツルギーとは、「人間は自己のアイデンティティに沿ったパフォーマンスをしてしまう」という概念です。

これが内包する作用に、「役割演技」という言葉もあって、「人は与えられた役割を遂行する」または「遂行している演技をする」習性がある、という視点。

さっき言った例であれば、①のパターンは「気の許せる人の前での自分」と「それ以外の人への自分」は演じるキャラクターが違うわけですよね。どれだけ自分の”素”を出すか取捨選択しているわけですから、態度が変わって当たり前なのです。

 

②は役割演技が混合することで生じる戸惑いです。普段、バイト先では「店員」として、知人には「その人に対しての自分」を演じていますよね。それぞれのキャラクターは独立しているはずです。なのに、一つの場所でどっちの役割も混在してしまうと、「私はどっちのキャラクターを演じればいいの」と戸惑うのです。「店員として丁寧に接しようか、知人として親し気な態度をとったほうがいいのか」迷ってしまうため、なんとなく居心地の悪い気分になる、というからくりです。

 

③では、与えられた「リーダー」という役割演技を遂行するために頑張らなければいけませんね。自分はリーダー気質ではないと思っているけれど、「期待されているキャラクターを成功させなきゃ!」とプレッシャーがかかり、重荷を感じてしまうのです。

 

私はこの言葉によって、

人によって態度を変えることはけして悪しき行為ではなく、人の性質であり社会性があるゆえの行為なのだと知ることができました。

 

ちなみにEveさんのボカロ曲で有名な言葉ですよね。この曲もドラマツルギーに当てはめながら聴くと面白いです。

youtu.be

 

儀礼的無関心

次は、電車を乗る時のことを考えてみましょう。

 

ここでちょっとしたクイズ(?)です。

Q あなたが乗り込んだ電車には、人が一人だけ座席に座っていて、あとはガラガラでした。あなたは座る席を選びたい放題です。さて、A~Eのどの席に座りますか?

 

 

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灰色の部分が車両、白い長方形は座席です。真ん中寄りの右上のほうに誰かが座っていて、下のドアから乗車すると考えてください。

 

 

・・・どうですか?

 

 

大抵の人はここでBかD、時々Cを選ぶと思います。

 

Aに座ったら、ほかの席がガラガラなのに相手に近距離すぎて決まりが悪いですよね。

 逆にEは遠すぎて、この人を避けていると思われてしまうかもしれません。

Cもなくはありませんが、入ってきたドアからそこまで行くには少し距離がありますし、この乗客の注意をひいてしまいそうです。

となると、一番何の印象もつけず、相手に失礼のなさそうな座席であるB、Dが妥当です。

 

他にも例えば、電車内でたまたま他人と目が合った時。決まり悪くてパッと目を離しませんか?よっぽどじゃないと、ガンをつけ続けたりニコッと笑いかける(よく一昔前のモテる女性の仕草♡みたいな特徴でこう言われてたけど、実際やってた人いるのかな?たとえクラスメイトでもめちゃくちゃ勇気いるでしょコレ)人って居ないと思います。

 

これらの現象は儀礼的無関心と名付けられていて、「相手を不快にさせないためにわざと無関心を装う」という人間の行動心理なんです。

 

どうでしょう?この現象って一口に心理学にも、哲学にも括りにくくないですか?こういうのをひっくるめて分類できるのが社会学の便利なところ。

この2つの社会学用語はとても古典的なもので、他にも色んな現象に名前がつけられて研究されています。

自分だけが感じていたような違和感とか、「なんで人間ってこーなんだろ」みたいな不思議さが真剣に研究されてると思うと、とっても面白くないですか?

 

 LGBTQも、生きづらさも

何度も言うように社会学は身近に潜んでいて、けして遠い話ではないことをわかってもらえたと思います(だといいな・・・)。

先ほど挙げた例は古典的なものでしたが、現代的な社会学もたくさんあります。

 

 例えばLGBTQというジェンダーの分野も、発達心理学に関わる「生きづらさ」の話も、全部社会学的な観点から考えられます。

 

「どうして同性同士で結婚してはいけないの?」

「そもそも”普通の幸せ”ってなに?」

と、当たり前に疑問を呈する姿勢がすでに社会学に通じているのです。

そしてそこから発展して、

「性の多様性」や「生き方の多様性」を実現した社会を追求してゆく。

 

同学部生の研究テーマも様々です。

「ヒットソングと時代の変化について」とか、「北欧の暮らしは生きやすいのかどうか」とか、「整形と自己肯定感の因果関係」とか・・・。

 

そういった疑問から、「個人と社会の関わり」を調べて、より良い社会に繋げられないか考える。

目標は果てしなく壮大に見えるけれど、糸口は身近で親しみやすい学問だと思いませんか?

 

まとめ:社会学や哲学はいらない?

よく、「哲学って意味がないよな、考えてもキリがないことを考えて。社会に対して何ができるの?」という人がいます。

知名度が低いから明言されていないだけで、きっと社会学も含まれているんだろうと感じます。

 

人の思想は多種多様です。だから、「この学問は無意味だ」という人を否定しはしない。

だけど、私は哲学や社会学なしには今の社会はできなかったのだと言いたいのです。

 

昔の人々が従来の当たり前を疑って、いろんな価値観を生み出してきたからこそ変わったものがたくさんある。

昔は小さな子供が働きに出て当たり前だった。

女性が男性に従うのが当たり前だった。

教育現場で暴力が行われていても大ごとにはならなかった。

「自分はLGBTQだ」と声を上げることさえ、難しい風潮だった。

 

今を疑って、未来をアップデートしていく。

その繰り返しなんだと思います。人生も社会も。

だから、哲学も社会学も必要なんです。

 

 

社会学ってこういうことを学ぶんだ、となんとなくでも伝わったらとてもうれしいです。長々と読んでくださってありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

大層な夢なんか持たなくて良いけど、夢への渇望は忘れちゃいけない

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「将来の夢」

キャリアプラン

「どんな人間になりたいか」

 

こういう質問を投げかけられるのが、嫌いです。

もうずっと昔からこの手の会話が苦手だったの。

 

共感してくれる人は多いと思うけど、ぼんやり幸せに生きられればそれでい~や、と思っていた矢先にさ・・・

「なりたい職業は」

「進路は」

「憧れている夢は」

なんて聞かれても。困る。

 

しかも、大層な夢じゃなきゃ笑われそうじゃん。実際、小学生の頃この質問に「幸せなお嫁さん」って答えていた友達、「職業を答えてね」って先生に言われたりしてたし。一部のクラスメイトは失笑していたし。

 

バカにするやつの心が狭えんだよ~!って、開き直れるほど僕ら強くない。

周りが「医者」「薬剤師」「看護師」「サッカー選手」って答える中、心からなりたいものがなかったあのみじめさ。

好きなことで稼ぎたいという欲望はあったので、「イラストレーター」「アクセサリーデザイナー」とか適当に言ってその場をしのいでいたっけ。

 

思い返せば、こうやってその場しのぎを続けたせいで大学受験の時に辛い思いをするはめになったのだ。

とりあえず日本語や読書が好きだったので、文学部を志望し続けていたんだけど。高校三年生の秋、土壇場で気付く。

「私別に文学を勉強したいわけでも文豪に興味があるわけでも、日本語を分析したいパッションがあるわけでもない」・・・と。

 

とりあえず好きだから文学部を志望してたけど、大学生になってからのビジョンが一切見えてこなくて、絶望した。

そして急遽社会学部に変更。結果論だけど、これは良い選択になったと思う。

 

哲学にも、心理学にも、そもそも人間というものにうすらぼんやりと興味があった。

それに、嬉しいことに社会学部は「明確にやりたいこと」が決まってない人の巣窟だった!(語弊!)

と、いうのも社会学って範囲がめちゃめちゃ広くて。極論、人間が関わっていること全て社会学的な目線で見ることが出来るから中途半端にいろんなものに興味がある人にはうってつけの学部だったんです。

 

ちなみに、こないだ美容院にいって美容師さんとこの話してたら、「社会学部ってなに学ぶんですか?」ってあるあるの質問をされてパッと答えられなくて難儀しました。ほんとにね、全部なんです。フワッとしてる学部なんです。

また、社会学部についてのブログも書きたいなと思っています。

 

でも今回の趣旨はそこじゃなくて、そうそう、夢の話。

 

土壇場で見つけた進路は、なかなか居心地が良くて。哲学や心理学もつまみ食いしながら勉強できたのは良かったのだけど。

そう・・・また分岐点がやってくるのです。就職活動です。

 

ないよ。やりたいことも大層な夢も。

 

まださ、夢追い人になれたらいいよ。

シンガーソングライターとか、漫画家とか小説家とか俳優とか・・・一筋縄ではいかない夢に、食い下がっていく気概があればよかった。

 

ない。根性なし。そもそも自分がない。

私、「好き」の濃度が低い。

大きな夢がないって嘆いていたら、自分の小さな夢もないがしろにしていた。

 

この気持ちを周りに言いふらしてたら、案外同じ境遇の人って多かったし、一度決めた夢から別の夢に変えてがんばっている友達もいた。

 

別に大げさな夢を持たなくたって僕らは立派なんだと気づいた。

だからこそ、自分の好きなことが分からなくなるのは問題だ。

 

 

結局「好き」が人生を豊かにする

 

焦った私は「BUCKET LIST」のノートを買って夢を書き出すことにした。

「死ぬまでにやりたい100のこと」って名前を聞けばピンと来ると思う。

 

買った商品には100個のチェックリストと100ページ余りの白紙が用意されている。その本を一冊、思いのままにデコレーション出来るという贅沢な商品だ。

 

だけど、書けない。

これを読んでいる人も、一度書いてみると良い。30~40個くらいまで書き出せてやっとだよ。それ以上は出涸らしみたいなクオリティーになってしまう。

 

夢の枯渇だ。ワクワクする感情が衰えている。

大層な夢じゃないといけない、という強迫観念に囚われて些細な夢を求めるセンサーさえ鈍らせてしまったのだ。

 

取り戻さなくてはいけない。

あの、レインボーアートを欲していた頃の気持ちを。 

家の側にツリーハウスを建てて秘密基地にしたいという気持ち・・・

 

 家の中にトラップを仕掛けたかったし、完璧なピザトーストを作ってみたかったし、チョコレートフォンデュを頭からかぶってみたかった・・・

 

あの欲望を取り戻したい。

その夢のために行動したい。

それこそが人生の幸福度をあげる近道だと思う。

 

(ちなみにとてもとても好きな記事

omocoro.jp

言わずと知れたオモシロの化身、ARuFaさんの欲望は見習いたい。

私も楽しい夢をメチャクソ無限湧きさせたい……)

 

 

まとめ

 

 無理に大きな夢を持つ必要はないけれど、自分がワクワクすることのアンテナは張り続けていきたいな。

そのために自分の好きなことをおろそかにしないで、思い切り楽しんでみる。

やりたいことリストを100個じゃ足りないくらい埋めて、生き生きしながら死にたいな!それがとりあえず今の夢!就活にはあんまり役に立たないけど!