cliché

駄文書き。amazarashi/歌詞考察/哲学/本や映画の感想/その他もろもろの雑感 について語ります。

岡野大嗣 「サイレンと犀」を読んで

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岡野大嗣さんの「サイレンと犀」を読んだ。

元々Twitterで見かけた彼の短歌が気に入っていて、是非とも短歌集を読みたいと思っていたところ大学の図書館に並んでいたので手に取った。Twitterでタグ付けされている短歌は、柔らかな色合いのイラストを添えてのんびりとした日常を切り取った内容の物が多かった印象だが、「サイレンと犀」の中の短歌たちは思った以上に重みを持っていて意表をつかれた。今回はこの本の中で気に入った短歌を(僭越ながら)選出し、感想を残したい。

 

◎友達の遺品のメガネについていた指紋を癖で拭いてしまった

見るに、岡野さんの短歌は刹那的なものが多い。指紋というのは、最も確証的なバイオメトリクスであり、もう火葬されてしまった人間から教えてもらうことは出来ないものだ。それなのに、せっかくレンズに残っていたそれを癖で拭いてしまった儚さ。直後の「あ」、という気持ちがじんわりと想像出来る。もう手に入らないからって何もかも大事に形見扱いする訳にも行かないんだけれど、それでも人が生きた証を消したくないものだ。

 

◎ひとしれずすり減ってゆく靴底のおかげで靴は靴でいられる

いつまでも新品なモノは果たしてそのモノ自身だろうか。削られていない真っ平らな鉛筆、何も消したことの無い消しゴム、観賞用としてしまわれているクリアファイル、インテリアと化したマグカップ、エトセトラ。与えられた役割を全うできない物質は、陰で自分の名前に疑問を持っているかもしれない。擦り切れて、汚れていくおかげでモノはモノであり続けられるのだ。

これは私たちの人生も例外ではない。命の終わりに向かって削られながら生きることで、人生は人生という名のもとに役割を果たすのである。


◎素敵だと言われたらもうこの歌は生きる力を失うのです

この作品集の中で一番解釈に戸惑ったのはこの歌かもしれない。私が自身の歌詞を褒められたら考える間もなく喜んで、生きる力を得るだろうから。でも、分からないわけじゃない。掴めそうで掴めないからこの歌は難しい。例えば今懸命に咲こうと双葉を覗かせた朝顔に、「素敵な花だ」と声をかけたら、彼女の人生はそこがクライマックスになってしまう。その儚さについて……だろうか?いずれにせよ、私はこの天邪鬼にも思える歌が好きだ。そういうことか、と実感を伴う機会があったら追記しようと思う。


◎消しゴムも筆記用具であることを希望と呼んではおかしいですか

書いたものを消し、誤字を正す消しゴムは、「書く」という観点からは対極の位置にあるかもしれない。加えて消しゴムは、己の働きを証明できない。ここを正したのですよ、と指さしてもあるのは白紙の文面と消しカスだけなのだ。だからこそ、そんな消しゴムが筆記用具だとカテゴライズされることに希望を見出してしまう。悲しい思い出や、思い出したくない過去をdeleteすることさえ"筆記"なのだとしたら、私たちの選択から"後退"は消えるはずだ。


◎骨無しのチキンに骨が残っててそれを混入事象と呼ぶ日

チキンの中に骨があるのは当たり前のことだ。それを人間が食べやすいように骨無しチキンに改良したのに、骨が残っていたら「異物混入」と騒がれる矛盾、ズレ、違和感。思うに、岡野さんはこんな人のエゴを責め立てるために短歌を書いたのではない。ただ、こうした風景に感じざるを得ない寂しさや虚しさを表現しているように感じた。


◎生き延びるために聴いている音楽が自分で死んだひとのばかりだ

私は太宰治が好きだ。言うまでもないかもしれないが、彼は心中自殺で人生を終わらせている。私は彼の小説に心救われた体験が多い。なのに彼自身が自殺していては、私の延命が間違いみたいで何となく居心地が悪い。この歌は、それに似た無常さを秘めた作品だと感じた。


ささやかな日常を切り取る系統の歌人だと思っていたが、どの短歌もうっすらと翳りを孕んでいて、ある歌はグロテスクに、ある歌はポップに現代を切り取っていてとても楽しく読むことが出来る歌集だった。

他にも美しい短歌が沢山まとめられていたので、是非「サイレンと犀」を手に取って色んな方々に読んでみて欲しいと思う。