cliché

駄文書き。amazarashi/歌詞考察/哲学/本や映画の感想/その他もろもろの雑感 について語ります。

世界を自分の見たいように見てはいけない

 

f:id:mnmtp:20201122231235j:plain

メアリー・カサット「オペラ座にて」

 世界を自分の見たいように見るな

世界を自分の見たいように見るな、という言葉が忘れられない。たしか、昔バズったツイートで見かけた。

 

どういう意味かと言うと、例えば老年の夫婦が仲睦まじく寄り添い合い、手を繋ぎあっている光景を目にしたとする。

大半の人は半ば反射的に、「長年連れ添った仲良しの夫婦」というストーリーを想起する。素敵な夫婦だなぁ、私もあんな老後がいいなぁ、というふうに。それが不倫現場であったり、再婚したばかりの夫婦である、と考える人は少ない。

これが、「世界を自分の見たいように見ている」という事だ、という言い分だ。

 

私たちは綺麗な物語や損得のない関係性に対して無防備だ。実際にそんな美しいストーリーが成り立っている場面なんてなかなかないのに、そういう幸せを盲目的に信頼してしまう。

 

逆も然りだ、何もかも順風満帆な人がいるのは信じられないから、白いものには黒い部分を「見出そうと」する。お金持ちに対しては、金では手に入らない価値あるものを持っていないと思おうとする。端正な顔立ちの人間は性格に難があると思われやすいし、座学が得意な人間は仕事では使えないと囁かれる。

偏見とは、つまり世界を見たいように見ている故の事象だ。

 

 それは右手をなくさない人間の見方ではないか

興味があって、文芸コンクールの一つである「太宰治賞」のHPを眺めていた。その中で、三浦しをんさんや、小川洋子さんなどのそうそうたる顔ぶれが、二次選考通過作品に対する書評を述べているページを見つけた。

 

第26回の書評に、衝撃を受ける。

そもそも、右手をなくすということは、それほど、一生、コンプレックスを引きずらなければならないことなのだろうか。それは、右手をなくさない人間の、見方なのではないだろうか。

 

右手を失くした主人公をめぐる「骨捨て」という作品へ宛てた加藤典洋さんの書評だ。こんなこと思いもしなかった。右手を失うことは、当たり前に人生の大部分を失うことであり、当たり前に多大なコンプレックスに発展するものだと疑ったことがなかったのだ。

 

もちろん、それで生きる意味を持てなくなったり、実際に一生涯自分の右手に思いを馳せながら生きる人もいるだろう。

問題は、そのパターンだけじゃないという想像力を持てなかった私の視野にある。私は世界を見たいように見ている。右手を失くした人は、それを一生引きずりながらも越えていくのだというドラマに魅せられている。

さらに言えば、その考えは「自分は体の部位を失うような事故に合わない」という根拠のない自信、自分は安全が保証されている観客席にいるのだという慢心の基に成り立っている。

 

 日常にそんなドラマはない

また話が逸れるが、私は普段歌詞を書くことが好きで、作詞の勉強を時々している。そんな中で、知り合いの作曲家さんに「思い通りに作詞ができる本」をおすすめしていただいた。

 

 本の内容としては、商業作詞家としての心得や作詞の基本的な書き方、名曲分析など。この本の一節に、こんな言葉があった。

Aメロの”きっかけ”を書くときには、絶対に”ドラマチックすぎる事件を起こさない”ことを心がけましょう。

 

 

初心者にありがちな歌詞の組み立て方として、悲しいときに雨を降らせたり、夕焼けを見てセンチメンタルになったり、思い出の場所で誰かのことを思い出させてしまったりする。しかし、本当に人はこういうときにこういう感情を抱くだろうか?記号としてこの情景を当てはめてしまっていないか。

日常にドラマを起こさせて、その流れに沿った歌詞を書くのは一見まとまっていて書きやすい。しかし、本当に人の感情が動くとき、そのきっかけは些細なものに過ぎないことが大半だ。

その自分の粗雑さに気づかなければ、誰かの心に残る文は書けないのだろうと思う。

 

世界を見たいように見ないように意識すること、それがこれからの課題だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

あたたかさは幸せの暗喩にぴったりだ

 

f:id:mnmtp:20201120123127j:plain

岡本帰一「オルヒネ」


 

着々と冬が近づいてきている。すでに布団は厚手のものに変えた。長袖の部屋着、ふわふわのスリッパ、暖房もつけて防寒対策はバッチリだ。

それでも少し冷え込む時は、温かいものを飲もう。コーンスープ、クリームシチュー、ホットココア。まろやかに喉を通り過ぎる温みは、寂しさとか悲しさを一秒だけでも忘れさせてくれる。

 

温かい、という言葉は、幸せを表すのにぴったりだと思う。ただ体がポカポカしているだけなのに、健康で文化的な生活を送れているような気になるのはなぜだろう。もちろん換気をする時の、頬がぴりぴりするような寒い空気もたまにならいい。頭がシャキッとして、脳みそをクリアにしてもらえる。だけど、ホカホカとした部屋の中でなんにも考えずだらだらしている時、うむ。幸せだな。と思う。

 

特に、真夜中の帰り道、自販機で買ったコーンスープをフリフリしながら飲み干す時間はプライスレス。凍えたからだが文字通り芯から温まる。元々の体温が低ければ低いほど、その体温の上がり幅が幸福度に反映されるような気持ちがする。これも、ずいぶん「幸せ」らしい特徴だと思う。

 

僕達は、日常的な幸せに気づきにくい。今ある安寧に鈍感なのだ。多少不幸であった時の方が、ダイレクトに喜びを受け取れる。ハッピー・マニアの記事にも書いたように。僕らの幸福は相対的なものであり、その元値が低ければ低いほど幸福はリアルな重みを持って現れる。

 

ずっと温い部屋の中で、閉じこもっていらればいいものを、僕らはどうしてか外に顔を出してしまうんだよね。ずっと閉じこもったままじゃ、きちんと幸せに気づくことが出来なくて、ひょいと窓を開けてしまう。「幸せのために不幸を求めて」しまう。

 

それは悪いことなのかな?

変わるためには、快適な場所から飛び出さなきゃいけない、という言葉もある。コンフォートゾーンとか言ったっけ。

もっと純度の高い幸せのために、凍える勇気も必要なのかもしれないな。

ぬくぬく。ベッドにくるまりながら、そんな事を書く。ぬくぬく。冷え性の私にとっては、たったこれだけでも十分温かいけれど。

 

高熱になるほどの幸せを、時々想像する。凍傷になるほどの不幸に、時々遭遇する。

1億人に1億枚の布団を、と思う。

あたたかい場所からでしか、人の温かみは望めないと強く思う。

 

誰でもいいから暖かくしていてください。体調にもどうぞ気をつけて。

 

 

 

 

まな板を磨きまくって気づいた。愛着を育てることは、積読に似ている。

f:id:mnmtp:20201118021118j:plain

最近人知れずハマっていることがある。何か。木製のまな板を磨きまくることだ。

 

以前も少し紹介させていただいたけど、私はyoutuberのchokiさんが好きだ。

彼女の、ほのぼのとした生活とスッと芯の通った性格に憧れている。

 

もともと、木製のカットボードを使ってみたかった。あの、なじみのよさそうな肌触りや深みのある茶色を想像してはAmazonで木製まな板を検索する日々だった。

 

そんなある日、彼女のyoutubeを眺めていたらTHE・木のまな板を使っているのを知って、私のカットボード欲は頂点に達した。

動画の中で、彼女は丁寧にまな板を拭き、アマニ油か何かを染みこませながらそれを磨いていた。

 

物欲というよりかは、「世話したい欲求」に近かった。

木製のまな板を手に入れたいという気持ちは、幼い命を引き取って、自分の愛情を込めて育てるあの感情に似ている。

私はとうとう、安い木のまな板を買った。

 

帰ってからまな板に触れてぎょっとした。やはり廉価なものは少し品質が落ちるものだ。

側面は木のササクレが残っていて、表面もなんとなくざらざらしている。

柄の部分も、水を吸い込むと窪んで歪んでしまった。本当に「木を裁断しただけ」って感じの商品だった。

その場で紙やすりとみつろうをポチった。

 

次の日、私は早速届いた紙やすりで木の板をこすりまくっていた。

木の屑がでるわでるわ。おがくずなんて中学の技術の時間に見たっきりだぞ。

少しテンションをあげながらこすりつづけると、まな板はあっという間になめらかなボディへ早変わりした。

次に、キッチンペーパーでみつろうを少し掬い、まな板に染みこませていく。

木はスンとろうを吸収して、すべすべとした肌触りのいい感触になった。

 

私はたまらなく気持ちよくなって、ほかの木製の家具にも同じ過程を施した。

なんというか、まるで自分が癒し手になれたような気がして。さらに、そうやって手塩にかけてすべすべにすることで、木製のなにかしらにすごく愛着を感じることができるようになったのだ。

 

私は料理をしない。

面倒くさくて、気が向いたら作るけどもっぱらコンビニに頼ってしまう干物である。

なのにまな板を大事にいつくしんでいる。

なにやっているんだろうとは思わないようにしている。

 

もう家の中で磨けるものがなくなったところで、ふと今の自分の状態は積読に似ているなと思った。

チュルリと輝くまな板は、私に「はやくこのお腹で野菜を切ってくださいよォ」とせがんでいる。

料理を後回し、後回しにしながらも、きれいなカットボードがそこに存在している。

 

 

studyhacker.net

 

そういえばこんな記事があったな。

積読は消して悪いことではない、と主張してくれている記事だ。

記事の中では、「プライミング効果」について解説されている。

目の付きやすい場所に自分の関心のあることを置いておくと、深層心理に自分の関心が刻み込まれる。その知的刺激が脳を活性化させ、新鮮なアイディアが生まれる可能性がある、とかなんとか。

つまり、私は今”積板”をすることで自分に知的刺激を与えているのかもしれない。

きっと将来、私はこの潜在意識へのアプローチによってすごい料理家になっているに違いない。

 

 

決して今現在ポジティブなものを生み出せていないけれど、磨き上げたまな板ーーあるいは読めていない本の数々ーーへの愛着は、尊いものであるはずだ。

 

何かを慈しんで、心を配る。

それだけで心が満たされるなら思う存分”積読”しよう。

きっと今のときめきが、未来の自分への布石になっている。多分。

 

むりやりまとめすぎたな。まあいいや。

 料理作ったら写真あげます。多分。