まな板を磨きまくって気づいた。愛着を育てることは、積読に似ている。
最近人知れずハマっていることがある。何か。木製のまな板を磨きまくることだ。
以前も少し紹介させていただいたけど、私はyoutuberのchokiさんが好きだ。
彼女の、ほのぼのとした生活とスッと芯の通った性格に憧れている。
もともと、木製のカットボードを使ってみたかった。あの、なじみのよさそうな肌触りや深みのある茶色を想像してはAmazonで木製まな板を検索する日々だった。
そんなある日、彼女のyoutubeを眺めていたらTHE・木のまな板を使っているのを知って、私のカットボード欲は頂点に達した。
動画の中で、彼女は丁寧にまな板を拭き、アマニ油か何かを染みこませながらそれを磨いていた。
物欲というよりかは、「世話したい欲求」に近かった。
木製のまな板を手に入れたいという気持ちは、幼い命を引き取って、自分の愛情を込めて育てるあの感情に似ている。
私はとうとう、安い木のまな板を買った。
帰ってからまな板に触れてぎょっとした。やはり廉価なものは少し品質が落ちるものだ。
側面は木のササクレが残っていて、表面もなんとなくざらざらしている。
柄の部分も、水を吸い込むと窪んで歪んでしまった。本当に「木を裁断しただけ」って感じの商品だった。
その場で紙やすりとみつろうをポチった。
次の日、私は早速届いた紙やすりで木の板をこすりまくっていた。
木の屑がでるわでるわ。おがくずなんて中学の技術の時間に見たっきりだぞ。
少しテンションをあげながらこすりつづけると、まな板はあっという間になめらかなボディへ早変わりした。
次に、キッチンペーパーでみつろうを少し掬い、まな板に染みこませていく。
木はスンとろうを吸収して、すべすべとした肌触りのいい感触になった。
私はたまらなく気持ちよくなって、ほかの木製の家具にも同じ過程を施した。
なんというか、まるで自分が癒し手になれたような気がして。さらに、そうやって手塩にかけてすべすべにすることで、木製のなにかしらにすごく愛着を感じることができるようになったのだ。
私は料理をしない。
面倒くさくて、気が向いたら作るけどもっぱらコンビニに頼ってしまう干物である。
なのにまな板を大事にいつくしんでいる。
なにやっているんだろうとは思わないようにしている。
もう家の中で磨けるものがなくなったところで、ふと今の自分の状態は積読に似ているなと思った。
チュルリと輝くまな板は、私に「はやくこのお腹で野菜を切ってくださいよォ」とせがんでいる。
料理を後回し、後回しにしながらも、きれいなカットボードがそこに存在している。
そういえばこんな記事があったな。
積読は消して悪いことではない、と主張してくれている記事だ。
記事の中では、「プライミング効果」について解説されている。
目の付きやすい場所に自分の関心のあることを置いておくと、深層心理に自分の関心が刻み込まれる。その知的刺激が脳を活性化させ、新鮮なアイディアが生まれる可能性がある、とかなんとか。
つまり、私は今”積板”をすることで自分に知的刺激を与えているのかもしれない。
きっと将来、私はこの潜在意識へのアプローチによってすごい料理家になっているに違いない。
決して今現在ポジティブなものを生み出せていないけれど、磨き上げたまな板ーーあるいは読めていない本の数々ーーへの愛着は、尊いものであるはずだ。
何かを慈しんで、心を配る。
それだけで心が満たされるなら思う存分”積読”しよう。
きっと今のときめきが、未来の自分への布石になっている。多分。
むりやりまとめすぎたな。まあいいや。
料理作ったら写真あげます。多分。