「私の子どもだから、どう育てようと私の勝手」。大森立嗣監督『マザー』をみて
マザーをNetflixで見た。大森立嗣監督によるダーク映画で、荒んだ家庭環境の中でなお母と共依存に陥る子どもの真っ直ぐに歪んだ愛を描いている。
あらすじ
ざっとあらすじを説明する。物語は、主人公「周平」の幼い頃のエピソードから始まる。長澤まさみ演じる母親の「秋子」は、いわゆる毒親で、働きたくないけど豪遊したいという考えのもと、子どもを使って家族に無心をし続ける。
そのうちお金がなくなった秋子は、パチンコでナンパしたホスト上がりの男・リョウ(役:阿部サダヲ)に熱をあげる。周平を放置してリョウのホストクラブに一ヶ月以上も遊びに行ったり、子どもの前で性的な行為をして、その間召使いのように働かせたり。
幼少期からこうやってこき使われてきた周平は、小学校も卒業できないまま17才へと成長する。ついには、この歪んだ愛がある事件を引き起こす・・・。
あまりにもあっさりとネグレクトが行われてしまうが、そんな母親にも子どもへの愛が全くないわけではないようで、誰かが彼らに手を差し伸べようとすると「子どもは私のものだよ!誰にも渡さない」と威嚇する。さながら子どもを産んだばかりの野良猫のようだ。
劇中では何度も、様々な人が彼女たちに救いの手を差し伸べようとする。しかし、母親はその手を取ろうとしない。セーフティネットとしての生活保護だってあるのに、秋子はその手段を有効活用せずに危うい道ばかり選んでしまう。
劇中の描写では、秋子の実家は裕福で真面目そうで、至って「普通の」家族に見えた。それでも、ここまで彼女が困難な方へ困難な方へ行ってしまうのは、見えないゆがみがあったのだろうかと考えてしまう。
「困っている人は助けるべき」?
実はこの映画は実話をもとに作られている。それもあってか、全体的にリアリティーのある映画になっていて、重たいテーマなのに惹きつけられてしまう引力を持っている。
「困っている人には手を差し伸べたい」
「弱っている人は助けるべきだ」
こんな当たり前のように唱えられている美学を、僕らはどれほど実行できるだろうか?
困っているって、どのくらい?弱っているってどれくらい?その人が明らかにその人自身で困難な道を歩もうとしているとき、「救いの手」なんぞを差し伸べられるだろうか。
実家から借りたお金も、生活保護の支給金も、離婚した旦那からの養育費もパチンコで溶かして。
誰だって「自己責任だ」「人を頼るにしてももう少し努力してから・・・」と思ってしまうのではないか。
それを責めるつもりは全くない。私だって同じ考えを持ってしまうから。でも、この日本の中でこんな風に苦しんでいる人って少なくはないんだろう。というか、そういう人が多いんじゃないかな。自分自身で泥沼にはまっていってしまう。でもそこから這い上がる気力も能力もなく、結局犯罪などに手を染めてしまう・・・そんな人が実際にいたからこそ、「マザー」が生まれたんじゃないか。
というかそもそも、人を助けられるほどの余裕なんてないし。
助ける相手に感謝されなければ、不愉快になるに決まっている。
と、ここまで「救えない側」の言い訳を並べてきたけれど、じゃあこの映画の家族が幸せになるにはどうすれば良かったんだろうね。救われそうなタイミングは山ほどあったのに。
例えば、大工仕事のエピソードが印象的だ。
周平が勤めていた大工仕事の社長はすごく誠実な人で、周平が彼の私物を盗んで質に入れている(これも秋子に命令されてやったことだ)ことを知ったときも秋子を真っ直ぐに叱ってくれた。
「親だったら子どものために働けよ!」と正論をぶつけられた母親は、珍しく反省した様子で会社の手伝いを受け入れる。食事も用意してもらって、仕事をすることもできて、生活の基盤が整ってきたところで家族はその街を去る。理由は明記されていないけれど、借金取りに追われているリョウを助けるため・・おそらく。
あと、個人的に絶望したのは、途中途中で挟み込まれる母親の性的コミュニケーション。いや、コミュニケーションは一切成り立ってないんだけどあえてそう濁す。
誠実な人だと感じていた社長も、彼女に誘われてあっさりとベッドイン・・・。奥さんを亡くしてしまって独り身なわけだし、社長は悪くないんだけど・・・。結局どんなシチュエーションでも母親は「女」を使って凭れられる対象を探してしまうし、それに答えてしまう人がたくさんいるんだなと軽くショックを受けてしまった。母親の今までの素行を知っているからこそ「なんでしちゃうんだよいつもいつも・・・」って思っちゃうんだろうな。
子どもと親の共依存
この物語の一番のテーマは「共依存」。
ストーリーの終盤では、母親のためにと犠牲になりつづける周平の姿が丁寧に描かれている。端から見ると、「どうしてそんな事を言うの?あなたは何も悪くないのに・・・」と思わずにはいられないほどの行動。その疑問に対して周平は言う。
「僕、お母さん好きなんです。」
「全部ダメですよ。生まれてきてからずっと。お母さんが好きなのもダメなんですかね」
生まれてからずっと母親のそばにいた周平は、母がひどい人だときっと理解している。それでも、彼はずっと母の側にいたかった。
離婚した(であろう)父に「俺の所に来るか」と聞かれたときも。
学校に通い続けたかったのに母親の都合で街を離れたときも。
ホームレスになったときも、福祉支援活動のスタッフに手を差し伸べられたときも・・・
逃げられるタイミングはたくさんあったのに、それでも「お母さんと一緒が良い」といって母の側に居続けた周平。
「もう周平だけだからね。周平しかいないんだからね」
という母の言葉に、呪われ続けている。
そう、親子って呪い。嫌いになりたくてもなりきれない。どこにいたってその半身を思い出してしまうし、ひどい事をされたのに一抹の情が残ってしまったりする。
頼んでないのに産み落としたくせに、「産んでもらった」「育ててもらった」という負い目を背負わされてしまう。親も、「自分の子だからどう育てても構わない」「ここまで育てたんだから子が自分を愛するのは当たり前」的な思想で、家族愛以上の愛を子どもに求めてしまう。
「私の子どもだからどう育ててもいい」
秋子が執拗に唱えていた言説だ。私はこの言葉を真っ向から否定したい。どうして劇中で誰も、はっきりとこれを否定してくれなかったのだと思う。
当たり前だけど、子どもは親のものじゃない。子どもは社会の一部で、その心は子ども自身のためにある。決して親の私物じゃない。綺麗ごとかも知れないけど、「それは違う。周平君は周平君の生きたいように生きるべきだ」と誰かに言って欲しかった。
きっと、少しだけ自分と映画を重ねている。小さい頃、母親と仲が良くなくて窮屈さを感じていた頃を思い出している。
育ててもらっているから。お金をかけてもらっているから。その枷にはめられて自由でいられなかったあの頃と、周平の姿がほんの少しだけ重なったのだ。
栄養のあるものを食べさせて、十分な教育を受けさせて。
間違ったことをしたら叱る、良いことをしたら褒める。
言うだけなら簡単だ。でも、これが出来ないなら子どもを縛る権利はない。
「救えない側」だからこそ、この部分は譲れないと強く思う。
まとめ
という感じで、すごく考えさせられる重たいテーマの映画だったけれど、どの俳優さんの演技もすごく上手で、のめり込める素敵な映画だった。
大森立嗣監督の映画は見たことなかったんだけど、他作品も見たいと思わせられる作品だった。
Netflixで見れるから、興味を持った方は是非一度みてみてください。