それがナイフではないことを願う――ジョーカーの「爆弾の作り方」
「爆弾の作り方」
https://j-lyric.net/artist/a052b38/l0207ba.html
ジョーカーを観た。まさに圧巻。腹に響くダークな音楽、憂鬱なストーリーに反して鮮やかな色彩。ホアキン・フェニックスの怪演!ジョーカーを演じているのではなく、ジョーカーに乗っ取られているかのような演技っぷりだった。所々の演出もいい。画面が切り替わる際にSEが先立って流れるが、それが前のシーンのジョーカーに向けられているように感じられる演出が何度かあって面白かった。例えばアーサーがストーキングを断念するシーンでは観衆の笑い声が響いているようだったし、アーサーが殺人を犯した時は歓声が響いているようだった。まるで海外のコメディー番組のように。
(以下、ネタバレを含みます)
さて、ジョーカーを見て数日後amazarashiのアルバムを聞いていたら「爆弾の作り方」にジョーカーが重なったので取り上げたい。
「爆弾の作り方」
“傷つきやすい僕等が 身を守るための方法
僕は歌で 君は何で?”
ざっくりとこの曲全体のメッセージをまとめると、「あなたにとっての武器とは何か?」だと思う。虐げられ、見下され、それでも「この野郎今に見てろよ」と自分を奮い立たせられる武器。それこそがあなたのアイデンティティーになり得るのだ。
それに照らし合わせると、アーサーにとっての武器は「コメディー」だった。トゥレット症候群の彼にとって、唯一自分を普通の人にしてくれる場所だった。そればかりか、自分が人を笑わせられれば、周りにプラスをもたらす人間になれると思った。ただ生きているだけで気持ち悪がられてしまうアーサーにとって、なんと素敵な兵器だろうか。
しかし、物語が進むにつれ彼の心の支えは尽くへし折られる。
精神安定剤らしき薬も止められ、話し相手もいない。ずば抜けたお笑いのセンスもなく、神様に侮辱され、挙句の果て自分の生きづらさの根源を知ってしまう。そうして彼は気づいてしまった。自分の武器は銃なのだと。
ここであえて確かめておこう。この法治国家の世において、アーサーは紛れもなく「悪」である、と。殺人は罪でしかないし、群衆を扇動しゴッサムを混乱に陥れたのは事実だ。アーサーの罪を「致し方ないこと」と片付けるのは、あまりにジョーカーを神格化しすぎている。
さらに言えば、この映画のほとんどがアーサーの被害妄想だ、という考察もある。有り得る話だ。彼は精神薬を断ってしまったし、事実彼が妄想に惑わされているシーンが明示されている。周りからの侮蔑も自分の不幸も全て被害妄想だとしたら、俗にいう「意味のある殺人」ではなくなってしまう。
現実の世界でいえば、ジョーカーに最も近いのは京都アニメーションの放火犯だという見方もある。
しかし、たとえ全てがアーサーの被害妄想だとしても、その妄想症を治す手立てがなかったのはアーサーのせいなのだろうか。
爆弾の作り方の歌詞にこんな一節がある。
「僕らはみんな武器を探している それがナイフでないことを願う」。
では、アーサーに武器を持ち替えさせたのは誰だ?